田辺聖恵 の検索結果:
… -自伝的学習論- 田辺聖恵 駄文は生涯学習の原型 社会人にまじっての英語夜学は、私にとって学校教育でない一種の生涯学習であったと云えよう。さて何故四年生の始めに学校を止めたかだが、これも生涯学習の結果であった。 小学六年の時、江戸川乱歩などの成人探偵小説を一通り読んでしまった私は、中一で「一握の砂」あのまっ白い表紙の啄木に取りつかれる。勉強はそこそこに、三行分けの短歌作りがもっぱら。これをパスすると、岩波文庫でツルゲネーフの散文詩、やがて翻訳詩から詩作りとなる。毎日学校で会…
… -自伝的学習論- 田辺聖恵 自発と学習 私の学校歴は戦前であるから中学五年制、その四年の初めに中退したから、今の高一で中退するのと外形は同じである。それでどうして通訳が出来たかと不思議に思われるから、一言弁明をする必要がありそうだ。キャンプの建物の維持管理の電気水道その他の工事のごくごく簡単な通訳だから、どうにか、それでも米軍引揚げまでの八年間メシを喰わせて貰ったのだから、何とも有難いことである。 では単語三千も知らない位で、どうして採用になったか。少々自伝めくが実はここか…
… -自伝的学習論- 田辺聖恵 『生涯学習』 仕事に命を賭ける いかにも日本人好みの言葉 仕事の道具に命があるのか 自分で工作した命ではない まさに恵まれた命なのだが 本質価値を知るのは難しい 生涯 何かを学習してゆくのか 生涯 生涯を学習してゆくのか この二途はやがて一つになるか 「生涯学習」-宇宙にあるブラックホールすら次第に解明されてゆく。人間も生物的には随分と分かるようになってきた。心理的にも随分詳しくなってきた。だがその人間が何の為に存在するのかは相変わらずブラックホ…
…」(全現稿141) 田辺聖恵 「老屋拝辞」 人々との御縁を広げる為に 清水から より市内の老屋に移り 裏庭の二百坪を隅々まで切り開いた 人々との御縁は有難く広がり 印刷機械をひたすらに購入し支払い 老屋を改修して印刷能力を増大した 人々との御縁をそのままに継続し 通信交流をもっぱらの態勢を整え 再び清水へ移転して老屋を拝辞した 老屋千暖荘 (尽師森 信三先生)ご転居の由 これで私もホッとしました お目出度う 万才! です 本当に安堵しました マヒの右手もて 九十一才 不尽 「…
…号 「尊敬と供養」 田辺聖恵 供養というと先祖にお経を上げてもらう事、先祖供養の事と、大半の人が思っている。それはこの国の仏教が「三宝」への供養こそ真の仏教であるという事を説き明かしてこなかったからであろう。 かなりの高齢者でも三宝というものを聞いた事が無いと言う。これらの人でも、お寺に仏像が祭ってあり、その仏けさんを信仰する事が仏教だ位には知っておられる。だがその仏教としての内容中味は聞いた事がなく、従って仏けさんが人間を超越した霊的存在なのか、何かの象徴なのか、ほとんどの…
…幸福を未だ知らず」 田辺聖恵 シヤ力族の王マハーナーマは釈尊の父が亡くなられた後、王となった釈尊の親族と思われるが、その様な関わりをぬきにして、一信者としてこの王は、釈尊やそのお弟子を供養し、法を聞く。 この王はまず「世尊」と呼びかけ、その尊敬を現す。世尊とはブハガバート(至福者-世間で最も尊ばれる方)であって、人間を超越した霊的存在などではない事を意味する。肉体をもって現実に自分を正導して下さる釈尊に対して、最高の信頼(帰依)と感謝の心を持ったのが、当時のあまたの信者達であ…
…刊 『仕事の本質』 田辺聖恵 [働くとは生きること] 心と身体の働きをもって動いているもの、つまり生きているのが人である。働くとは人が動くという字。ハタラクとは端の人が楽になるように仕事をすること、他への奉仕だと、しゃれて云う人がいる。仕事も仕は為(し)する、なす、するという字であるが、事をするというより事につかえるとした方が、味わいが出る。 事とは、ものとものごとなりゆきと二つの内容をもつ。するとわれとわれわれをとりまくすべてのものやものごと、一切ということになる。この一切…
…」 「仏教は対話」 田辺聖恵 原始経典(アーガマ経)を学んで特に気がつくことは、そのほとんどが対話だということだ。釈尊は弟子と対話し、信者と対話することで、正導をなされた。これは宗教、教育に限らず、人間関係の基本であり、かつ又究極と云ってよいのかも知れない。 これが日本式になると、師は語り、弟子は黙って聞くものとなっているのではなかろうか。学校教育が教科書中心に教えられるように、仏教も漢文経典を主にするとなると、その解説が主となるから、対話式にしていたら先には進めない。何しろ…
「釈尊仏教の原型」 田辺聖恵 二千五百年前の釈尊が、歴史上の実在者として正導された、その仏教の原点は何か。仏教を知りたいと思う者がまず思うことは、あるいは最後に思うことは、その仏教の原点であろう。 原点とは単なる初めのことではない。その事の煮つめに煮つめた最終的エッセンスの事である。それは「解脱~ニバーナ」である。一般には仏教は覚りを求めるものと言われる様だ。様だというのは浄土門では、「覚りは得られない、往生を求める」とも言われる。 つまり表面的にはまる反対の話があるので、共…
…。 「親と子の道」 田辺聖恵 この一文は孔子さんの「論語」の一部であると云われたら、多くの方がそうと思われるのではなかろうか。これは釈尊がじきじきに説かれたお経の一部である。「六方礼経」として、現在南方仏教圏では大事にされている、いわば在家信者の生き方の指針となっているものである。現在でも南方では親や老人が大切にされている様子はテレビで時々知らされる。それは論語の影響ではなく、まさに釈尊仏教のお教えの影響と云わねばならない。 敗戦という大動乱ではあれ、たった一度の経験で、今ま…
…信者と弟子の差異」 田辺聖恵 ここの神様は有難い神様だ、昔からよく信仰されている、といった意味合いのものを信仰と思っている場合が日本では多い。何だかよく分らないが、拝むと気持がいいといったのもある。ご利益があるそうだからお札を受けてきてやったよハイ、といった式もある。お産や受験ともなればあちこちから善意のお札が届けられる。 自分の所の神棚の神様の名前も知らず、お仏壇の意味も聞いたことがなく、ご先祖のお位牌を拝むことが信仰だと思っている人も多い。親と同居しない新家庭にはまるきり…
…1号 「体得と信」 田辺聖恵 釈尊の仏教は覚りの宗教である。覚りとは一切の苦を無くしてしまう事である。それを苦からの脱出、解脱とも言う。これはその様な人間状態になる、体験、体得の事である。しかもそれは自分自身でその体験を自覚出来るものである。それは死んでから先の事ではない。釈尊は人間としてその様な体験をされ実証された。覚りを別に証と言うのは、自分で分かる、自ら証明するという意味合いだ。 釈尊が仏教の開祖、師匠とされるのは、人間として自ら体験出来た事をもって導かれるからである。…
…の 人間になる道」 田辺聖恵 人間を知りたいという欲求 それは、釈尊が何故に求道の出家をしたかという動機を見れば分る。 欲のわざわい知リたれば。遠ざかりを安らぐ道とみて、遠ざかり のための精進に勇みてわれはゆかんとす。 とある様に、人間としての相付的な愛欲、それが満たされる、そうした幸福感の限界、情感的世界のむなしさを知って、それ以上の人間の本質を知りつくす生き方を求めて、求道の旅に立たれたのである。その旅は六年間の苦行と、その苦行が見当違いであったという つまり、本質を知り…
「出家清浄」 田辺聖恵 釈尊の宗教活動は一日としてお休みということがない。朝の静思、午前の托鉢、午後の静思、夕方の法話、夜の静思、就寝とこのくり返えしである。その間に旅、移動をなされる。 特別の大会とか、何かのお祭り行事といったこともない。人々を正導するための静思(サマーディ・ジェーナ)をなさり、正導のための法話をなされる。宗教活動(仕事)と生活が一体であって、宗教者の理想の在り方を釈尊は生きられた。 このような宗教活動が十年二十年と続けられれば、多くの帰依者信者が出来るのは…
…行動の自由と責任」 田辺聖恵 祈祷と祈念 先日、年忌の法要に呼ばれ参上した。ご一同揃った所で、和訳のお経本(三宝信行式-弟子と信者との在り方を集録)をお配りし、ご一緒に誦読した。その後膳席で仏教の在り方を短く法話する。 中にお一人、ある新興教団に入り、ガンで死ぬばかりだった母が治ったとしきりにその有難さを述べられる。その教祖様には首すじからアミダ仏が入られ、様々なご利益を与えられる様になったと。 天台宗系統との事であるが、その密教性がその様な奇跡行動となってくるのであろう。同…
…日刊 「信に二種」 田辺聖恵 アイマイな信仰感情 信とは、ま心、二心なし、澄みわたった心、という意味であるから、二通りも三通りもあるわけはない。今ここで信を二種とするのは、徹底するか、徹底しないかで一応の分け方をするのである。数字の一も十も同じ数字であるが、少ないのと多いのでは表現が違うのと同じ。 徹底の信が求道の心、不徹底が幸福を求める信者の信と、ここでは一応分ける。徹底の信は、むしろ修行の行の中に入れられるべきであるから、これは後に述べるとする。在家信者でも求道熱心な方も…
…による変革の仏教」 田辺聖恵 特に宗派の専門的な仏教書を読むというのでなく、ごく一般的な仏教入門書を読まれた方もかなり多いであろう。そうした入門書にはたいがい原始仏教つまり釈尊の教説にふれている。つまり「縁起説と四諦説」であると。そしてそれから後期の宗派的な大変難しい解説となる。これは仏教学者が書くからどうして学問的となり、哲学的な難しい話になる。それも漢文化された翻訳経典を引き合いに出しての文字解釈が加わるから大半の人は分からないという印象を受ける。そこから宗教心を発生させ…
…981年4月1日刊 田辺聖恵 序論と本論 序論=業報三論、本論=教行証。まず坐れ!とか、まずおすがりせよ!とか、どうも日本式になったものは、奪という、どギモをぬく方式が多いようである。我があるから苦しむ、だからまず我をとってやろう、という親切心からのようであるが、これは求道心がしっかり出来ている者に対しては一つの直接法ではあるが、釈尊はそうした方式をとってはおられない。誰でもが入れる方式は教育システムである。教育システムとは、知・信・行-まず内容を知って、分って、出来ると確信…
…間と神々とブッダ」 田辺聖恵 北方に伝えられた大乗経典には、仏・ボサツ(菩薩)・竜王それにいろいろな神が出てくるので、日本人にとっては、ヘキエキする位であるが、南方に伝えられた原始経典(南伝大蔵経)には、ほとんどそのような面がない。初め妙法蓮華経を十年近く毎日読誦していた私は、そんなものかとも思い、八代竜王と何々を結びつけて考えてみたりしたこともあったが、一度び原始経典に接するようになって、時折大乗経典を手にすると、いかにそうした種々の仏名やボサツ名その他がわずらわしいものか…
… 心の悪魔との対決 田辺聖恵 今こそ求められる仏教 仏教とは仏けさまが救うて下さるもの、仏けさまの慈悲に満ち満ちたものと思われる方が多い。それと同時にその様な仏けさまがどこに存在するであろうか、と疑問に思う向きも多い。 さて仏けさまの根本、もとおこりはどの様であったのであろうか。仏教とは釈尊によって始められた、人間としての究極的な在り方、いわば完全なる自己実現の道、最価値的な生き方―である。 人間か最も人間らしくなり得る道、つまり現代において最も求められるべき生き方である。そ…
…は人間のすじみち」 田辺聖恵 苦行から正行へ 釈尊は二人の仙人について精神統一を習い、その師らと同じ程度に熟達したが、その哲学においてもの足らなくなり、ついに小高い山に(前正覚山)登って、六年間の難行苦行に入る。それは実に徹底したもので、風雨雷光にさらされ、断食の行、寒熱にたえる行、立ちづくめの行、子供らの軽蔑にすらたえる、あらゆる苦行をなされる。しかし苦行ではだめで。正行によらねばならないとその間に体得なさってゆく。 かくのごとき苦行を修め、成しがたきをなせるもなお、世間を…
…刊 「出家と遠離」 田辺聖恵 儀式なき仏教 真の釈尊仏教は、大衆への迎合ではない。大衆とは、幸福を求めいろいろな生活習慣の中で生きるものである。大衆生活の中で一番大きなことは、婚礼や葬礼であろう。誕生もある。時には戦争という国をあげての大事件も発生する。 釈尊とその弟子達は、そうした信者生活に合わせるように、金ピカの衣装を着て、鐘、太鼓を鳴らしながら、儀式を取り行ったりはしない。在家信者、あるいは無信仰の一般の人々にとって、この儀礼が大切なことで、それに逆に振り廻わされること…
…人間主義にあらず」 田辺聖恵 仏教の開祖釈尊は明らかに人間であった。ブッダとは人間としての最高の生き方をされる理想者のことである。後期仏教のように、山も川も草も木も仏性を持っているといった複雑な哲学を通さねば理解出来ないといったお方ではない。 いわゆる思想や哲学であれば、その発想者の生活行動を知らねば理解出来ないという事はない。一タス一ハ二という数思想を誰が云い出したかという事を問題にする必要がないのである。釈尊の仏教は「縁起の思想」を正導するものである。仏教を思想として捉え…
…日刊 「己を学ぶ」 田辺聖恵 人間の幸せ 私ども人間は、幸せを求める存在である。ところが幸せとは何かと、講演会などで、多くの人に質問をしてきたが、なかなかサット答が出ない。 「健康」「お金」という答がしばらくして出てくる。しかし健康で金まわりがよい人で、不幸な人も沢山いる。この二つは、実は幸せの内容ではなくて、幸せを作りあげる土台にすぎないことが分る。誰でも幸せを求めてはいるのだが、幸せということがよく分らない。こゝに人間の不幸があると云えよう。 もし人間がもともと幸せ存在な…
…「人間究極の解明」 田辺聖恵 人間は永遠の存在で、死なども無いとすれば、大した苦悩を感じる事はないであろう。所が現実に例外なく人は死ぬし、さらに厄介な事に何時死ぬかハッキリしないという事で、人間は生きなければならないのである。そうしたいわば条件付きの生にどの様な意味があるのであろうか。こうした疑問を持つ様になるのは大体何歳位であろうか。私事で恐縮であるが私は、中二位の時、宇宙創成の本を読み大いに悲観したものである。やがて何時かはこの地球も他の天体と衝突し、破壊する事もあろうと…
…「先祖供養の仕方」 田辺聖恵 先祖供養とは、自分を生み育ててくれた人々、または己の過去心と考えて、たべ物などをさし上げて養い、安らかにさせるということです。 その先祖の好きだったものをあげるという心情が大切です。水は生命の根本です。もし水児などなら牛乳もいいでしよう。しかしこれは、こちらのせめてもの思いということで、死んだ霊が供物をたべるわけではありません。やり方は生きている親を養うのと同じにします。一種の親孝行です。 親にあいさつし、望むことをしてあげ、たべさせる、ねぎらう…
… 「真理法の宗教」 田辺聖恵 仏陀観がはっきりするためには、仏教の真理欲がはっきりせねばならない。不思議な力で永遠の生命といったブッダ観は、仏教の基礎としては、かえってさまたげになる。たゞ救われたい、心の安定が得たいという時には、そうした仏けさまの救いを求めたくなるが、日常が平安な時は、そうした求め方はしないほうが多い。 仏教とは、仏陀の教えであり、ブッダ (覚者)になる教えである。ブッダとは、真理を悟り、心身が安らかとなり(こゝまでを覚りとしやすいが)他を自分と同じような境…
…釈尊は何を悟つたか 田辺聖恵 真理と実生活 仏教とは、釈尊がボダイ樹の下で真理を悟られた、その「覚りの教え」ということである。仏とはブッダ(仏陀)のことでボディ(菩提=覚り)というコトバからきている。 それが拡げられると、誰でも悟れる教え、となるが、それから誰でも仏けになれるということに発展し、ついには本来もともと誰でも仏けであるという(本覚法門という哲学)ことになり、山川草木すべて仏性があるということにまでなってしまった。 このように思想を展開してしまうと、その根本、オリジ…
…973年4月1日刊 田辺聖恵 釈尊出生の意義 時代を救う-釈尊はニつの大きな期待を負わされて、出生された。武力によって強い国が勝ち、国をその征服王の野望によって大きくしょうとする戦乱。文化が開けてきて、一体人間は何のために生きるのであるか、それが分からぬがための思想の混乱。戦乱を平定するのは偉大なる王であり、思想の安定をもたらすのがブッダ(仏け)だと。 釈尊は止むに止まれぬ心から、あとのブッダの道を歩まれたのである。 武力は絶対か-一つの家庭の中で、争いの心を持たずに通せるで…
…形式や強制ではない 田辺聖恵 仏教とは何か-という捉え方に今日大いに問題があるようである。先日、浄土門からキリスト教の牧師になられたJ・S氏の文を読んだが、アミダ仏という仏けが実在的でないということが、転宗の最大の理由とのことであった。これは氏に限らず、多くの日本人が仏教に対して強い信仰を持ち得ないことの理由でもあろう。 昔のお説教に、「こいよこいよお手招きして迎え取って下さるありがたい親さま」といった方式のものが多くアミダ仏がいかにも生きている人間と同じような人格や感情があ…