三宝169号 真の幸福を未だ知らず その一

三宝169号

三宝聖典 第二部 第十項

むさぼりの苦

 時に世尊、カピラ城外のニダローダ林にとどまりたまえり。シヤカ族の王マハーナーマは、世尊のみもとにまいり申し上げたり。
「世尊、われは世尊の『むさぼりと怒りと愚痴は心のけがれなり』とのみ教えを了解せるものなれど、しかもなお時おり、これらの煩悩がわが心をとらえるなり。そはいまだ、わが心に捨つべきものの残れるがゆえと思えり。」
「マハーナーマよ、まさにしかり。そはむさぼりと怒りと愚痴とがおんみの心のうちに捨てられずして残れるがゆえなり。もしおんみの心のうちに、これらの煩悩が捨てられてあれば、おんみは家庭に住まず、むさぼりの欲をあさり求むることはなし。『むさぼりには昧少なく、苦多く、悩み多きものにして、わざわいはさらに多し。」と聖なる弟子にして、正しき知恵によりてかくのごとく知れるも、このむさぼりのほかの幸福に達せず、あるいは他のよりすぐれたるものに至らずば、むさぼりの渦中におちいるなり。正しく知り、むさぼりのほかの幸福、他のすぐれたるに達すればむさぼりの渦中より脱するなり。
 マハーナーマよ、これわが経験なり。われいまだ覚りを開かざるうちは正しく知れど、むさぼりのほかの幸福、他のすぐれたるに達せざるがゆえに、むさぼりに追われたり。その後、幸福、すぐれたるに達したればむさぼりよりのがれたり。
 マハーナーマよ、むさぼりの欲の楽しみとは何か。むさぼりに五つあり。好ましく心地よき物と声と香りと昧と接触なり。これ楽しみと喜びとを生ず。
 マハーナーマよ、むさぼりのわざわいとは何か。人が種々の生活をなし、暑さ寒さにさらされ、飢えと渇きになやまされ、努力して富を得ず、また努力して富を得るとす。またこの富を守らんがためにさまざまの苦しみを経験なすとす。これむさぼりの欲のわざわいなり。
 現在の苦しみはすべてむさぼりの欲を因となすなり。マハーナーマよ、むさぼりのために王は王と争い、親子兄弟、友とも争う。これむさぼりのわざわいなり。
 むさぼりのために、人々は体と言葉と心に悪をつみ重ね、悪のために死後、地獄におちてもろもろの苦を受くるなり。これむさぼりの欲のわざわいにして、未来の苦しみもまたむさぼりの欲を因となすなり。」

「真の幸福を未だ知らず」
                                         田辺聖恵
シヤ力族の王マハーナーマは釈尊の父が亡くなられた後、王となった釈尊の親族と思われるが、その様な関わりをぬきにして、一信者としてこの王は、釈尊やそのお弟子を供養し、法を聞く。

この王はまず「世尊」と呼びかけ、その尊敬を現す。世尊とはブハガバート(至福者-世間で最も尊ばれる方)であって、人間を超越した霊的存在などではない事を意味する。肉体をもって現実に自分を正導して下さる釈尊に対して、最高の信頼(帰依)と感謝の心を持ったのが、当時のあまたの信者達であったに違いない。
 
まずは尊敬のご挨拶をしてから王は、自分の感想質問を申し上げる。ここに学ぶ者、正導を受ける者の基本姿勢、順序がある。かりに師から難しい事を説法されても、自分が一番気にしている事と結び着かなかったら、聞いても上の空になってしまう。少しましな親ならいきなり子供を叱ったりはしないと同じだ。当方に来られる方に私は、「今何に関心がありますか」とまず問う様にしているのだが私の関心が主であってはならないからだ。

教育という言葉には教え育てるという響きないし実質がある。親の言う通りしていれば間違いはないというのであれば親が主役。今のスポーツは何やら監督同士が主役に感じられる。
 
釈尊は本人の関心事にずばり答えられる。本人が求めもしない、哲学の話などしてもしょうがないからだ。ここに『生涯学習』の本すじがあると言えよう。学校教育で高校一年になると十一万人かの中途退学者が出るそうである。私白身も戦前ではあるが、中学四年で中退した事があるので、学校教育は生涯学習と平行して行なわれるべきだと考える。そう言えば中三頃、「大法輪」という仏教雑誌を読み始め、沢木興道師の坐禅写真集を取り寄せて自分なりに坐禅のマネなどをしていた事を思い出す。
 
質問する王は、仏教の教説を知識として知っても、体験を伴わないから、煩悩が解決され、捨て去られる喜びが分からない。だが教説の知識的認識が無いことには、疑問も関心も生じるわけがない。
 
現在の日本人の大半が、仏教に対して無関心だというのは、お経の中味を読んだ事がなく、説教も聞いたことが無いのだから当然至極である。たまたま聞きに言ったり解説書を読むと、すべてが漢文の解釈に終始するから、何だかよく分らなかったという半端感しか残らない。どうしてこうなるのか。二対一の対話的指導がなされていないからである。仏教者は日本語で仏教を語る習慣を持たない。テレビであっても一一漢語を画面に出すという面倒さだ。

仏教の基本知識とは、むさぼりと怒りと愚痴(無知)の煩悩、苦悩を解決する事である。何もお不動さんやお観音さんに変身する様な超自然的な事ではない。だが基本知識だけで苦悩が解決するものでもない。そこに信者の限界がある。だが限界的ではあるが信者なりの幸福感も得られるのも事実である。
 
多少でも修道すれば確実に解脱出来る事は、沢山のお弟子たちが証明している。その事実を見れば、自分にも解脱する可能性がある事を信じられる。これは大いなる希望に違いない。原理と体験証明を伴った釈尊にお会い出来ることの幸せは、世俗生活のどの様な満足とも較べようのない、まさに貴重な幸福であると言えよう。