三宝 第168号 尊敬と供養 その一

三宝 第168号

「尊敬と供養」                       田辺聖恵

供養というと先祖にお経を上げてもらう事、先祖供養の事と、大半の人が思っている。それはこの国の仏教が「三宝」への供養こそ真の仏教であるという事を説き明かしてこなかったからであろう。
 
かなりの高齢者でも三宝というものを聞いた事が無いと言う。これらの人でも、お寺に仏像が祭ってあり、その仏けさんを信仰する事が仏教だ位には知っておられる。だがその仏教としての内容中味は聞いた事がなく、従って仏けさんが人間を超越した霊的存在なのか、何かの象徴なのか、ほとんどの人がご存知でない。
 
ある有名な脚本家がラジオ座談で、自分は無宗教なのに、娘が結婚した相手がクリスチャンなので、食事の時お祈りをされるのでとまどうと言っておられた。日本のインテリは祖母は信仰していた-信仰はいい事だと思う-だが私は無信仰だと言う。これが一部インテリだけならまだしも、この頃は老いも若きも、男も女も信仰というか宗教を持たないようである。
 
宗教とはその人の心の在り方、心から出てくる行動の仕方-生き方そのものの価値を問題にするものである。所が徳川時代に生き方は儒教道徳で、死後は仏教でといった奇妙な分離が行われ、結婚式や祝い事は神さんで、葬式や法事は仏けさんでと、若い人までがこれをしきたり習慣として受けついでいる。若い人が宗教的なボランティア活動をするなどという事は、。まず無い。何分にもお寺さんに宗教的奉仕活動をするというお手本がないのだから無理もない。仏教を始められた釈尊は真理法(ダンマ)を人々に正導し、人々に身と心を奉仕された。だから仏け(ブッダ)である。そのお弟子たちは釈尊を見習い、法が広まるように宗教活動をする仲間(サンガ)であった。このブッダ・ダンマ・サンガが三宝である。この三宝は三つそろって仏教となる。仏け様だけの一人働きなどというの仏教ではない。「救うぞよ」「お救い下さい」こうした様式は神霊的な力の信仰形態ではあるが、教えがない。教えがないから分かりようがない。困った時には何かの力(大半は金)を求めるので分かる事を必要としない。という事は、お金で何とかなってゆけばそうした力の信仰などはいらないという事になる。
 
日本化された仏教は大半が信ずる信仰である。従って分からせるという事がほとんどない。従ってお寺が観光寺院になるか、アパート経営になるか、葬式儀礼といった面での需要供給者にならざるを得ない。お寺財産の維持、家族生活の維持が優先すれば、宗教活動にわが身(単なる観念でなく)を大衆に奉仕するなどという事は、思いも寄らないという事になる。
 
では本物の「三宝仏教」とは何か。三宝への供養である。供養とは財物・体・心の総てにわたって三宝に奉仕する事である。しかもそれが最大級の尊敬をもってなされるのでなければならない。このように書いている私もこの平成二年一月八日で、まる三十年、ささやかながら三宝への奉仕として仏教活動をしてきた。だが、あまりにも仏教そのものへの関心を持って頂くに至らない。そこで私に才能が無い故だと自己弁解をしていたが、今、この一文をタイプしながら気付かせられた事がある。それは三宝への尊敬が最大限になっていなかったからである。尊敬薄き信心は自我欲に過ぎないのだ。