三宝 第150号 「行動の自由と責任」 祈祷と祈念

三宝 第150号 「行動の自由と責任」 田辺聖恵

 祈祷と祈念

先日、年忌の法要に呼ばれ参上した。ご一同揃った所で、和訳のお経本(三宝信行式-弟子と信者との在り方を集録)をお配りし、ご一緒に誦読した。その後膳席で仏教の在り方を短く法話する。
 
中にお一人、ある新興教団に入り、ガンで死ぬばかりだった母が治ったとしきりにその有難さを述べられる。その教祖様には首すじからアミダ仏が入られ、様々なご利益を与えられる様になったと。
 
天台宗系統との事であるが、その密教性がその様な奇跡行動となってくるのであろう。同じアミダ仏信仰でも浄土門系統は、祈祷願いを特に戒しめられるので、まる反対になる。 現在の様に医学が進んでも、新たな文明病が次々と登場して治りにくくなる面も増大する様で、ご利益というか奇跡的な神秘力を求める人が、都会ではどんどん増えつつあるそうである。
 
病気治しに限らず、願い事をしようとするのも、迷信扱いするわけにはゆかない。問題があればそれに流されるのが自然ではなく、何とか解決したいとするのが人間の自然と考えられるからである。
 
世界大戦が近々の中に二度も起きて、一体どこに奇跡があるのかと首をひねらざるを得ないが、個人間においては奇跡と思われる様な事はしばしばあるものである。このタイプ中にお電話があった。ご祈念(願い事)を頼まれていた事がかなえられたので、という感謝のお電話である。この三十年近く、様々な方の願いをご祈念してきて、大体かなえられてゆく事を知っているが、これを私は奇跡とは考えない。感応力というか人間の集中力の範囲と考える。そこで祈祷とせず祈念とするわけだ。祈祷は神仏の神秘力に訴えようとするものだが、祈念は自分の願い心(目的意識)を集中し、その達成を強く思う(念とは強く思い続ける事)ようにする事である。従ってその心を神仏に向けても、理法に向けても、自然に向けても、自分自身に向けても構わない。最終的にはその結果の責任は自分が負うものだからである。
 
さてこの様な心構造と釈尊の仏教とはどうつながるのであろうか。まず結果をどう受け止めるかから逆に考えてみよう。ここで釈尊の仏教と限定するのは、日本仏教はあまりにも種々あって話が混乱するからである。釈尊は高度な真理(縁起法とその体得覚り)の話をなさる前に、「業報論」をなされたのである。これは業つまり行いによって結果の報いが来るという事である。
 
これは当時の大半の人が神様の神秘力を願うという信仰を持っていたからである。神様によって運命が決まっているならば、人間はこうなりたいという希望を持つ事が出来ず、従って努力行動を起こさない。これでは真に自己を満足させる事は出来ないではないかと云われる。戦いに明け暮れしてきて、いまだに止まないのは、人間に欲望的な自由意志があるからである。自由がある以上、責任もついて廻わる。自由なるが故に、人間は向上もし向下もする。戦いへの反省が真の平和への祈念ともなる。
 
仏教は、人間が行動存在であること、そこに自由と責任があり、神罰や不思議力で支配されているのではない事をまずハッキリさせる。その上で人間の能刀を極限化最大化しようとするものだ。