浄福 第68号 人間と神々とブッダ

浄福 第68号 1979年5月1日刊

「人間と神々とブッダ                            田辺聖恵

北方に伝えられた大乗経典には、仏・ボサツ(菩薩)・竜王それにいろいろな神が出てくるので、日本人にとっては、ヘキエキする位であるが、南方に伝えられた原始経典(南伝大蔵経)には、ほとんどそのような面がない。初め妙法蓮華経を十年近く毎日読誦していた私は、そんなものかとも思い、八代竜王と何々を結びつけて考えてみたりしたこともあったが、一度び原始経典に接するようになって、時折大乗経典を手にすると、いかにそうした種々の仏名やボサツ名その他がわずらわしいものかという気がする。もし引用文をしたり、説明をしようとする時は、その長々と統く名前のら列を省略せざるを得ない。こんなことを云えば「何とごう慢なヤツだ、経典の一巻はもとより、一字一字が仏けであると昔の人は礼拝したものである。」とお叱りを受けるかも知れない。
 
ただ声の調子をありがたくして誦し唱えている時は、別に意味を考えるのでないからわずらわしいなど勿論思わない。それは一度間違えたら何年でもその間違えた通りに唱えるということでも分る。しかし何故このように、沢山の仏名やボサツ名を次々といわば繰り出すのかと考え出すと、大変厄介になる。なるほど法蔵ボサツなどとすでに漢文で、しかも意味訳されている分には、法の蔵、法が一杯つまっている。あるいは法そのものかなといった拡大解釈や類推なども出来るが、ナゴラガとかキンナラとかインド発音のまゝが漢字でされていると、まるきり分らない。
 
そこで昔の学人は、そうした名称にはあまり触れないで、その全体の文としての意味合いを摂取し、それによって立論していったのである。しかしそれでは何のために仏名のら列があるのか、経典作者の意図を正当に伝承しようとしないということになる。こゝにインド人と日本人の読誦態度の違いというものが現われてくる。インド人は、たとえばヨーガの行者にしても、「オーム・オーム」と一日中口唱するやり方があるそうだ。オームはAOM、アオム、日本人にはアウンとなる。アは一切の初まり、ンは終り、この初と終りを口唱することで天地とその間の一切を象徴し、その一切と融けこむことに専念するのである。それはあまり理論立ったことではない。一種の神秘化である。ところが日本では、狂信的な人を除いて、静かに仏名を唱えてその仏けと一体となるといった方式はあまりやらない。「信ずる」という方式であっても、何故救って下さるかという理、すじみちをまずはっきりさせてから、そのすじみちを忘れたごとく信ずるのである。従ってまるきり理を聞きしらずに、いきなり神秘的な信に入るのではない。いわばさめた信とでも云うべきであろうか。
 
よく日本人は、知的民族ではない、情的民族であると云われる。だから仏教も日本化されて情的信仰になったと。私もそのように考えていたが、もう一歩よく考えると、決してそうではない。あまり理論を云わぬはずの禅門、特にその一派の曹洞宗の祖、道元禅師にしてもボウ大な論述をしておられる。「義なきをもって義とす」というタテ前を立てられた浄土門親鸞聖人にしても、そのことを例証せんがために大部な教行信証論を書き綴っておられる。そして諸仏、諸ボサツ、神々などをいわば皆切か捨てゝしまって一仏に選択しておられる。                            
 
これは原始仏教待代、つまり釈尊が、「私はブッダである。」と宣言され、あとはひたすらに法を直接弟子、信者に説かれたのに似ている。釈尊はその法を種々な仏名やボサツ名などで象徴しようとなさることはなかった。それは単純明快な法であるから、象徴とかたとえ話とかを用いる必要がなかったとも云えよう。法=人間の本質のすじみちの解明、体得が仏教の目的であるから、いわば学習であって、およそ神秘化とは違う。当り前のことを当り前にしてゆくのが釈尊仏教なのである。



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