三宝 第152号 「釈尊仏教の原型」
「釈尊仏教の原型」
田辺聖恵
二千五百年前の釈尊が、歴史上の実在者として正導された、その仏教の原点は何か。仏教を知りたいと思う者がまず思うことは、あるいは最後に思うことは、その仏教の原点であろう。
原点とは単なる初めのことではない。その事の煮つめに煮つめた最終的エッセンスの事である。それは「解脱~ニバーナ」である。一般には仏教は覚りを求めるものと言われる様だ。様だというのは浄土門では、「覚りは得られない、往生を求める」とも言われる。
つまり表面的にはまる反対の話があるので、共通点としての原点をこうだとはなかなかしにくい。こうした差違は後期になるに従っていよいよ大きくなり、仏教開祖の釈尊が登場することはほとんど無かったのである。ところが書店では釈尊の伝記に「八聖道」の教理をあしらったマンガ(劇画)本が出ている。さらに驚いたことには、有名な漫画家手塚治虫氏が釈尊劇画の第二巻を出している。
漫画家はつねに時代の先端をゆく鋭敏なセンスを持つ者であるが、それが宗教に向かい、しかも原点志向をしている事に感銘を受ける。さて仏教の原点は何か。覚りとすると成仏するとかしないとかで話が複雑になる。そこで釈尊が言われた点にすると解脱である。それは一切の苦悩の解決である。悩みというと大体感情的なものである。しかし中には知的に苦しむ人も居る。
王家の政治担当という家系にある釈尊は、その生みの母親の、産後七日目の死というものを通して人間は何故生と死があるのかと疑問を持たれた。これが解けなければ知的苦悩である。それは知的家系にあったからと言えないこともない。それまでの神々が人間を救って下さるといった教説では満足出来なかったのであろう。
こうして二十九歳になってからの出家求道という事は、やはりよくよくの事と云わねばなるまい。それは単に自分も死にたくないといった不安や迷いの解決ではなかった。六年もの曲折の求道があって遂に釈尊はその回答を得られた。人間は縁起するものであると。
縁起するとは、すべて人間も含めて、縁によって生じ縁によって滅してゆくものである-という、もの及びもの事のすじ道、道理である。このすじ道が分かったという事は、長い間の知的難問が解けたという事である。多くの人は感情が落ちつかねば、知的話は聞いておれず、ましてや理解どころではない。
「家内安全・健康長寿・商売繁昌・交通安全」とまあ、百円位のおさい銭で思いつくまま何でもお願いするといったセンスで、仏教を聞いてもこれはカミ合わないのが当然である。給料が保障され、健康保険もあるとなれば、もろもろのお願いすらしないで済む。
釈尊においては、人間はいかなる存在かという知的解決がなければ、感情の本当の安らぎも出来てこないという次第だ。
感情の落ち着きから知解へ進むか、知解から感情安定に進むか、人によってどちらが先になるか違うのが当然だが、いずれにしてもこの理知性と感情性の両方が満たされ安定した時が、真の解脱と言われるものである。単にお任せといった自我放棄などではない。
それでは人間の根源にある、本当の事を知りたいという正善欲求が満たされず、それではどこかに霧がかかった様な所を残すことになる。解脱や悟るという事はそのアイマイさをなくすことなのだ。
田辺聖恵
二千五百年前の釈尊が、歴史上の実在者として正導された、その仏教の原点は何か。仏教を知りたいと思う者がまず思うことは、あるいは最後に思うことは、その仏教の原点であろう。
原点とは単なる初めのことではない。その事の煮つめに煮つめた最終的エッセンスの事である。それは「解脱~ニバーナ」である。一般には仏教は覚りを求めるものと言われる様だ。様だというのは浄土門では、「覚りは得られない、往生を求める」とも言われる。
つまり表面的にはまる反対の話があるので、共通点としての原点をこうだとはなかなかしにくい。こうした差違は後期になるに従っていよいよ大きくなり、仏教開祖の釈尊が登場することはほとんど無かったのである。ところが書店では釈尊の伝記に「八聖道」の教理をあしらったマンガ(劇画)本が出ている。さらに驚いたことには、有名な漫画家手塚治虫氏が釈尊劇画の第二巻を出している。
漫画家はつねに時代の先端をゆく鋭敏なセンスを持つ者であるが、それが宗教に向かい、しかも原点志向をしている事に感銘を受ける。さて仏教の原点は何か。覚りとすると成仏するとかしないとかで話が複雑になる。そこで釈尊が言われた点にすると解脱である。それは一切の苦悩の解決である。悩みというと大体感情的なものである。しかし中には知的に苦しむ人も居る。
王家の政治担当という家系にある釈尊は、その生みの母親の、産後七日目の死というものを通して人間は何故生と死があるのかと疑問を持たれた。これが解けなければ知的苦悩である。それは知的家系にあったからと言えないこともない。それまでの神々が人間を救って下さるといった教説では満足出来なかったのであろう。
こうして二十九歳になってからの出家求道という事は、やはりよくよくの事と云わねばなるまい。それは単に自分も死にたくないといった不安や迷いの解決ではなかった。六年もの曲折の求道があって遂に釈尊はその回答を得られた。人間は縁起するものであると。
縁起するとは、すべて人間も含めて、縁によって生じ縁によって滅してゆくものである-という、もの及びもの事のすじ道、道理である。このすじ道が分かったという事は、長い間の知的難問が解けたという事である。多くの人は感情が落ちつかねば、知的話は聞いておれず、ましてや理解どころではない。
「家内安全・健康長寿・商売繁昌・交通安全」とまあ、百円位のおさい銭で思いつくまま何でもお願いするといったセンスで、仏教を聞いてもこれはカミ合わないのが当然である。給料が保障され、健康保険もあるとなれば、もろもろのお願いすらしないで済む。
釈尊においては、人間はいかなる存在かという知的解決がなければ、感情の本当の安らぎも出来てこないという次第だ。
感情の落ち着きから知解へ進むか、知解から感情安定に進むか、人によってどちらが先になるか違うのが当然だが、いずれにしてもこの理知性と感情性の両方が満たされ安定した時が、真の解脱と言われるものである。単にお任せといった自我放棄などではない。
それでは人間の根源にある、本当の事を知りたいという正善欲求が満たされず、それではどこかに霧がかかった様な所を残すことになる。解脱や悟るという事はそのアイマイさをなくすことなのだ。