三宝 第65号  『仕事の本質』 働くとは生きること

三宝 第65号 1971年10月8日刊

    『仕事の本質』                    田辺聖恵

[働くとは生きること] 心と身体の働きをもって動いているもの、つまり生きているのが人である。働くとは人が動くという字。ハタラクとは端の人が楽になるように仕事をすること、他への奉仕だと、しゃれて云う人がいる。仕事も仕は為(し)する、なす、するという字であるが、事をするというより事につかえるとした方が、味わいが出る。
 
事とは、ものとものごとなりゆきと二つの内容をもつ。するとわれとわれわれをとりまくすべてのものやものごと、一切ということになる。この一切のことにつかえる、一切の生命現象、生きるという厳然たる事実に奉仕するということが仕事であろう。
 
人間に関することで考えるためには、まず人間に近いもの、動物などの生き物と比べてみるのが分かりいい。考える、判断するということは、もっている知識を並べて比較し、どちらが善いか悪いかを比較してゆくのが一番簡単な決め方である。能力のある人だったら直観の力を大いに使うことだ。それは精神を集中し、さらにその後で心を開放することの練習によって、その能力を増すことが出来る。
 
さて、生命体を考えてみるに、植物は日光と空中のタンサンガスと、水と少々のミネラルで新陳代謝して生きる。しかし根が土の中で固定しているので、もっと栄養分のあるところへ移動することが出来ない。つまり与えられた環境の中で全く受動的に生きるより仕方がない。しかしその受動的というのが、全くそうかというとそうではない。木を見ると、お日さまの照る方、南側に枝がよけいのびる。花は蜜をもって虫を誘い、花粉を遠くに運ばせようとし、実は鳥に食われて遠くに持ち去られ、タンポポなどは風にのせて種を遠くに飛ばせようとする。竹などは地下茎でどんどんのびていって地下を移動する。つまり植物もより良く生きるために、動いてゆくということが分かる。
 
動物はエサを求めて移動することはまことに明瞭。しかしトカゲやカメのように冷血動物は、身体の働きが十分出来にくいので冬眠してお休みする。動物も高等になると、温血なので、外界の温度に支配されないで、常時動くことが出来る。人間もこの温血動物の一種であることは事実である。昔は人間は万物の霊長であって、霊があるから動物とは違うと云っていたがそうした先入観をもっていては人間の価値はあらわれない。生命の歴史をみると、

 無生命物(生命化の能力をもつ)→植物化→動物化→高等化→人間化 これが事実である。しかし物が人間になるというのは唯物論で、人間の尊厳を傷つけるものだという考えは、右の変化が何と五十億年という人間からみれば無限に近い年数をへて変化しているということを知らなかったからである。
 
この年数が、人間に価値をつけてくれたのである。なぜなら人間は感情から理知をきわだたせ、さらに価値を考える力を生み出し、自分自身をみつめる能力まで作りあげたからである。それは人間だけの力ではなく、人間をとりまくすべての力の総決算である。人間を育てて存在させているのは、自然の力であるから、自然と人間は同じ価値をもつ。人間が尊いなら自然も尊い
 
この生命歴史の中には、動きがあり、動きはすべてのものの中に含まれている力(エ不ルギー)の働きである。生命とは動くもの、その力に応じて働くものということになる。したがって働き、仕事をすることが人間である。

仕事をすれば満足が生じるのは、収入があるからではなく、又仕事をさぼれば落ち着かなくなるのは、人間の本質に反しているからである。
 
生き甲斐論や人生論が流行するのは、人間が高度化してきたからである。戦争という貴重莫大な生命の奉仕によって、人間の自由が得られたことの結果である。もし敗戦によって軍部の解体がなかったら、今でも天皇陛下は生き神様であり、憲兵が警察官以上の万能的な力を使い、大衆はストさえ出来ず、政治への発言もぐっと抑えられていたろう。
 
戦争放棄は日本自身の努力によって維持されているのかはまことに疑問だが、言論、集会、結社の自由は保障されている。この根本の自由が、人々に生きることを考えさせてくれる。これらの自由がない国では、いかに生きるかではなく、それらに自由を得るための闘争に人を立ち上がらせる。
 
神国日本などといった作られたメンツ、世界に目が開きかけて対立的に作られた虚名が、見事に引きはがされて、一応の自由が与えられている。しかし、自ら苦労してかち取った自由でないために、誰もありがたみを感じない。今でも富の分配が不平等だと、果てしない闘争を繰り返そうとする人々もあるが、人生の価値を実現するのが不可能なほど、貧しいということはない。むしろ生活を簡素化し、足るを知るの生き方をする方が、よりよく人生を見ることも味わうことも出来るものといえよう。つまり人生論を充実させることが不可能なほど貧乏なものはいないので、そっちの方に心がまるで向いていないというだけにすぎない。GNPがどうであろうが、世界情勢がどう変わろうが、一人一人が人生を充実させるのには全くちょうどよい時期に日本はきているのである。今後の二十年間を外したら、日本人の充実は消えてしまって、日本は金とレジャーとコンクリの固まりになってしまうであろう。

今こそ日本人の一人一人が、人間の本質に目覚め、仕事への価値観をはっきりさせ、なんのために生きるのかをはっきり確立させる時である。
 
今後二十年間の間にというのは、戦後のガムシャラな食うための働きが一応終わり、世界の動乱にあまり巻き込まれずにすむ間にということである。日本には戦後が終わっても、世界には戦後はない。つまり民族の興乏が、内部のエネルギーとして常に爆発するのだから、世界に恒久平和などあるはずがない。いくらかの小康バランスがとれる時があるだけだ。
 
こうした人類の闘争の宿命は、個人としてはすぐれた人間化をとげておりながら、集団としては高度化していないということである。個人としてなら、釈尊孔子のように自己を完成した方々が二千五百年も前に出ているのに、集団となると我々は全くつまらない。それはまだ個人の完成法、人生論が未発達で普及していないことによる。
三宝」が社会の一遇で働かねばならないというのも、人生論が不十分だからである。大衆が、正面きって「何のために生きるのか」を論じあうということにまでなっていない。かりに論じても、論争となって、対話とはならない。まず対話の仕方から学習せねばならないのだから。
 
人間は感情で行動する。しかし多くの人は理由(なぜ)が分からねば、つまり納得しなければ行動できないと思いこんでいる。そこでなぜを語りあう人生論が必要なのである。なぜとは何か価値がおるかということである。
 
人生タイプをちょっと思いつくままにならべてみよう。
 
内向型(どうもわからん型)、攻撃型(やれやれ型)、価値追求型(なぜ型)、衝動型(やってみにゃ分からん型)、結果本位型(ようするにどうにかなるのや型)、努力型(コツコツつみ上げ型)、名誉型(おれが出にゃだめだ型)、奉仕型(ささやかに型)、人情型(まあいいじゃないか型)
 
さてあなたは、どんなタイプでしょう。あなたが若くっても、店仕舞いの時でも、はりきっている中年でも、ともかく人生と仕事とを考えないわけにはゆかない。ともかく1回きりの人生なのだから。