三宝 第91号 「釈尊仏教の教とは何か」 序論と本論

三宝 第91号 「釈尊仏教の教とは何か」1981年4月1日刊
                                     田辺聖恵
 序論と本論
序論=業報三論、本論=教行証。まず坐れ!とか、まずおすがりせよ!とか、どうも日本式になったものは、奪という、どギモをぬく方式が多いようである。我があるから苦しむ、だからまず我をとってやろう、という親切心からのようであるが、これは求道心がしっかり出来ている者に対しては一つの直接法ではあるが、釈尊はそうした方式をとってはおられない。誰でもが入れる方式は教育システムである。教育システムとは、知・信・行-まず内容を知って、分って、出来ると確信してから実行し体得するということである。

このようにまず分るようにするということは、その逆へ進むか進まないか、自主選択をせまられるということでもある。この自発性から始まるのであるが、その前の予備的説明が啓蒙、こゝを通らねば自発性は生じない。従って自発性を生ぜしめるような工夫も又大切ということになる。 

さて序論の業報三論とは何か。まず三つのあやまった考えを是正するということ。その一は神意論ー神の意志によって人間の運命はすべて定められている、とする考え。これだと、いろいろ神のご意志をお伺いしたり、神のご機嫌をとったり、いけにえをささげたり、と神を自分人間の考えではからうことになる。人間を超えた存在とされる神を人間があれこれと限定するのは矛盾である。

その二は宿命論-人間の一生は生まれる以前からの運命としてすべて決定している、とする。が、日常はそんなふうに考えず、何か一寸不幸が続くと、これは運命だとしてしまう。その時その時の考えは一種の矛盾である。その三は偶然論-なりゆきはすべて偶然である、とする。沢山の必然を見落としてのこの考えも又矛盾である。

この矛盾に満ちた考え(これはよく考えたものでないから思いつき、断片感情にすぎない)では、人間は希望を持つことが出来ない、したがって目的を立てず、それに向っての努力をしないから、目的に到達することがない。これでは人間の生き方を求めようとする人間の本性に反するから人間学ともすることは出来ない「三つの邪論」では正しい生き方の論とは何か。正論=業報論である。業とは行い。自己によって意識されたものを主にする。報とはむくい、結果のこと。前節で述べた「善因善果、悪因悪果」。善い報い受けるように準備も充分にし、その目的達成にふさわしい努力すれば、必らず到達するという原理。これは人間を含めた自然界そのものゝ現象、つまり実際のあり方を観察して考え、まとめられた原理。
 
この序論が理解納得のゆかない人には、釈尊は真理を体験する本論を説かれることはなかった。それは徒らに非難する者を作りかねないからである。つまり教えすぎないという本来の教育システムをしっかりと打ち立てゝおられたということである。