浄福 第46号 釈尊は何を悟ったか

浄福 第46号 1977年6月1日刊

  釈尊は何を悟つたか              田辺聖恵

真理と実生活
 仏教とは、釈尊がボダイ樹の下で真理を悟られた、その「覚りの教え」ということである。仏とはブッダ仏陀)のことでボディ(菩提=覚り)というコトバからきている。

 それが拡げられると、誰でも悟れる教え、となるが、それから誰でも仏けになれるということに発展し、ついには本来もともと誰でも仏けであるという(本覚法門という哲学)ことになり、山川草木すべて仏性があるということにまでなってしまった。     

 このように思想を展開してしまうと、その根本、オリジナルはもう分らなくなり、その展開されたところでのみ云々され、賛成反対がなされ、実践実生活とかかわりがなくなり、一般大衆にはまるで分らないものとされ、敬遠せざるを得なくなる。

 中・高生で数学を好まない者が多いのは、基本が分らないで通ってしまったからである。仏教も悟るという、本来の形を持とうとするならば、つねに基本が明確にされ、それが理解された上でやがて高度な話とならねばならない。又、それが釈尊の正導方式でもあったのである。後に仏教は救いの方式としてとらえ、浄土門として展開されるが、本来、救われるということは、
 一、釈尊が悟られた真理があるということ
 二、釈尊が悟られたという事実があるということ
 三、誰でも、いつかは同じように悟れるということ
以上の三点を信ずることによって、悟ったと同じような状態になり、ついには悟るということを意味する。

 お経に仏さまが救うぞと書いてあるから救われるのだといった方式では今日、説得力が弱い。釈尊は『有名な長老が云ったからそれを正しいとするということではいけない、仏教の内容は、つねに経(教えの内容-真理中心)と律(仏教徒の生活規律)に合致しているかどうかで確めよ』と云っておられる。

 仏教では経と律を車の両輪のように考える。云い替えると、真理(経の内容)と生活(真理に合致した実践)の二つにおいて、よりよき正しさと洗練を求めるものである。つまり悟りさえすればよい、救われさえすればよいということでなく、そうした知恵と感情が日常の行動となる(知・信・行)ことに本当の目的があるのである。

 悟った人達が、何か特別な言動をするといったものではない。釈尊仏教は一般大衆の常識を尊重しながら、それを土台にして、さらに一段と高い、真理生活を真現せよとされたものなのである。

 真理内容は
 真理内容を明確に知り、それを自分の深層意識においてなるほどと納得了解することを慧解脱という。そのように理性を深め、理性上、それ以上知る必要がなくなる(見惑がなくなる)ことは、いわば人生観の確立である。思想の徹底、哲学の完了である。しかし、感情というものはなかなか転回しない。そこで修行、修道が必要とされる。それは信を徹底させるための工夫、聞法のつみ重ねでも同じであり。そしてやがて、感情的なしめつけが転回、解放される。これを心解脱という。このように理性・感情両方が解放され、今迄の自己中心のギスギスしたものから、法の世界に生かされているという、理解と喜びの心になることを倶解脱(倶とは共に)として一応の自己完了となる。

 日本では空をとらわれないこと、つまり感情面のあり方として説明されるので、理解面が充分に促進されてこなかった。これが結局仏教を分らないものとして敬遠させてしまった大きな原因ではなかろうか。本来空と縁起は同じことなのであるが、説明の仕方は自ら異なってくる。縁起というコトバが日本で使われるよりになったのは近々この百年のことである。かつては縁起がいいとか悪いとか云った誤用が多く、これから大いに訂正されねばならない。

 ではその縁起論とはどんなものだろうか。「これあるゆえにかれもあり」~これ(原因と条件)があって初めて、かれ(結果)がある。原因だけでも、条件(環境も含む)だけでも結果はあり得ない。一タスニは三ということは一だけでは三にならないということである。逆に考えると三があるということは一や二があるということである。素質に努力や環境が加えられて初めて人間の開花があるということ。

 夫は妻がいるから夫であって、男と女とがたゞ居ても、そこに緑が無ければ夫妻ではない。この縁の重視が縁によって(もともと縁の字をよりてと読む)結果が起きるというので縁起という「これ生ずればかれ生ず」~目に見える常識的な見方によれば、今迄見えなかったものが、発生してくるように見えるので、時間的経過を示すものとして受けとれる。いわゆる常識の徹底である。

この面でも仲々一般には納得しかねることが多い。交通事故などに会うと、一方的に相手を責め、己に有利なようにしようとする。

 自分の幸せは当然のこととし、まわり、さらに根源的に已にいろんなものや心がかかわりあっていて、自分にプラスしてくれていることなど、まるで気づこうとはしない。

 このような無常識からまず素直な常識を回復せねばならない。老病死という、いやなことがあるのは、いやと思うその心に実は原因があるのである。無智無明(真理を知らないこと)がその心の原因である。真理を知れば、つまり欲望が生存をもたらすという常識が分れば、それは当然のことで、老病死がなかったら、むしろ大混乱を来たすであろう。              

 しかしこの縁起説は、この発生的時間経過による観察(異時因果)から、さらに同時因果としての同時にある関係を観察するようになる。夫と妻は同時である。この同時ということは、直ちに平等というものの本質を観察することになる。憲法は法の本に平等ということを決めているが、実は夫妻に限らず、人間はすべて相関々係で存在しているのだから、本質的に平等なのである。決して一方が優で一方が劣なのではない。このように一切平等を打ち樹てることに、常識の近代化がある。その上で、修養向上することへの尊敬が生じる。こうして存在する理由、発生する(実は相互関係によって変化してきた)理由が分ることを流転縁起という。

 本質が、現象的つまり表面の常識的判断によって、価値的に低落して、悪化してくるという実際的な観察である。この現在を苦悩と感じるやりきれなさである。

 そこで何とかせねばならない。それは、条件からさらに原因にさかのぼって、原因をなくしてしまえばよい。無智無明が原因だから、右のような真理を知ればよい。すると苦悩はなくなる。これを還滅縁起という。原因にさかのぼって、無くしてしまうことである。

 以上までは論理的に、常識的に分ることである。それをするとなると、信の徹底、知及び行(修道)の徹底が必要となり、それは非常識いや超常識の世界となる。それを真空妙有と称することもある。自己中心を離れきって、何ものにも束縛されなくなることである。これは誰でも容易になれる世界ではない。まずもってそうした世界があると信じ、あこがれを持つことが信者ということになろう。

 仏教はこのように、本来、論理的には平易なのである。それをそうだと思えないのは、自己中心性や先入観があるからであって、それもこの縁起ー真理観になじむことによって次第に転回してくる。

 そしてそれを深く味うことによって、いよいよその高大深遠さがかみしめられるのであるが、平易さと深遠さは、一応分けられ、そして最終的に一枚になってこなければならない。

 仏教を本で読む人はとかく「あゝそんなものか」として、それを体験する深遠さ、それを日常生活化する高大さに力を入れようとしない。それは仏教が権威をもつが権力によらず、本人の自発性、人間の本質と価値による本物の宗教なるがゆえであろう。従ってこれを普及正導することが非常に重要となる。人間形成のための真の教育がそこに現前するといえよう。それが仏教徒の実生活である。


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