原始仏教講座 第六講(最終講) その七

第六講 その七
 四弘誓願ということは、宗教活動をしなければならないという決意を中心に言っているものです。これは何も坊さん宗教専門家でなくて信者においても、その方向にあるべきだし、信者さんがもしそれが出来なければ、そういう宗教活動をする人を支持する。
 施しをする供養するというのは、宗教家を大体供養することなんです。鳥、獣に供養するというのもありますけど、本来お釈迦様の時分は、例えばすずめに供養するとは言わないでしょう。すずめに供養しますとは、そういう言い方考え方はしないです。
 供養というのは矢張り、人間宗教活動する人に供養ことなんですね。だからお釈迦様の時分も、信者さんは宗教活動をする専門家を、供養しそれによって自分の宗教活動にかえたわけです。それは家庭にいる人が宗教活動なかなか出来ませんからね、実際問題として。お釈迦様の時分、全部、事実実際あった話ですからね。
 所があとになりますと宗教活動をせよと、家庭に居る者も宗教活動せよと言う風に、段々実際から離れていくんです。その象徴として観世音菩薩とか文殊菩薩とか普賢菩薩、法蔵菩薩とあれこれお不動さんそういう象徴的存在として段々出てくるわけです。
 それは宗教活動せよという、仏教精神を表したものなんです。ところが段々そういうお観音さんが救うて下さるという、お観音さんを実体的に信仰するということになってしまう。いわゆる仏像信仰になるわけです。そうすると仏教精神は段々分らなくなってしまいます。
 そういう意味でこの宗教活動を我々もしなければならない、自分がしなければ宗教活動する人を支持していかなければならん。そこに在家の信者としての宗教的あり方があるということです。