原始仏教講座 第六講(最終講) その四

第六講 その四
 法門かぎりあらずとも、というのは、法門というのは、法、門は入り口、法の教の門が幾通りもあると、南無阿弥陀仏のお浄土の系統もあれば、座禅の様な系統もあると、あるいは真言宗もあると色々な法門、入り口はある。法門かぎりあらずとも、それらを行学する、それを学習し体得し、分って身につけていくということです。全部やるというのは大変ですけど。
 仏道この上あらずとも、仏教の道というものは、真理を悟っていくということですが、この上あらずとも誓ってわれら成しとげん。というわけです。これが四つの誓い願いであるというわけです。
 第一番に、衆生いかに多くとも、誓ってわれら導かん。人々を導こうということが、この四つの項目の一番に置いてある。これが一番大事だというわけです。普通だったら煩悩を断ち切って、悟ってそれから人を導こうとなるわけでしょう。ところが、その順序でいくと、いつまで経っても自分の煩悩を断ち切ることが出来ない、一生修行であるという風になると、人を導くことが出来ないで終ってしまうと、いうことになるからというんで、そこで反省がくるわけです。だから自分の煩悩を断ち切るということが、完全にまだ出来ていなくても人に教え導きをやらにゃいかんじゃないかというわけです。これが後期仏教、紀元元年前後に出来た法華経とか阿弥陀経、自分だけが悟るということをやっていたら、人を結局導くことが出来ない、だから自分が悟ることよりも人を悟らせるという宗教活動の方がもっと大事だというふうになってきたわけです。
 で衆生いかに多くとも、誓ってわれら導かん。人々を導くということが大事であるということ、それを第一にもってきた。まさにここに仏教精神の高まりがあるわけです。