解脱後の自殺

 「解脱後の自殺」
    『正善聖の人生』 
   体の病い心のゆがみを直して生きる
   それは環境に振り回されない人生である
   自分のペースでゆく正しい生き方である
    自分なりの信条仕事観をもって生きる
    それはまさに輝かしい不惑の人生である
    単なる幸福以上の善なる生き方である
   納得がゆく宗教をもって生きる
   それは生かし生かされの人生である
   充実と喜び感謝の聖がある生き方である
 
 宗教的には己の欲望的生を願わない〜これに尽きるのだと思いますが大変な事ですね。この欲望が苦しみを生み出しているのですね。でも価値的に変換は可能ではないかと思います。しかし何か価値でないかの判断は、個人がなすべき事なのだと思うのですが、難しいです。
  「価値判断」多くの宗教が禁欲的なものと思われていますが、釈尊の仏教は苦の原因は激しい欲望、そのまた原因は無知として、人間のすじ道(人間構成の真理)を知る事によって、自己変革が出来るとします。これはまさに自己価値の構成認識ですね。
      「究極の価値は自己の価値認識体得である」
 様々な価値観がありそれは益々多様化しますが、それは自己の外延化であるから決定的とならない。自己の内実に向かう価値観察であれば一点化します。この一点で価値への体得変身を果たせば、後は自分の特性を生かした応用的な、外延的な生き方となります。

「解脱後の自殺」
 仏教では自殺を罪とする。しかし解脱後の自殺は罪でないとされる。何故ならば仏教は、生きている自己を究極的に熟成させる事をもって、人間の生きている意味、価値とするからである。それは解脱、自己解決による人間としての本質的生き方をめざす事である。
来世至上主義であれば、自殺も一手段として許されることになるかも知れない。心中もので、死んであの世で共に暮らすというのがまるで仏教思想のように考えられている様だが、仏教はそんな甘いものではない。何分にも業報論を土台にするものだからだ。
 業報とは自分がした事の報いを自分が受けるという事である。それは自分の生き方に自分が責任を負うという事である。この事実論をぬきにした神仏の救済などは、自分に都合よく作り上げているものにすぎない。単に信じさえすれば救われるといった交換条件論でもない。又、単に禁欲的にヒッソリと山の中かどこかにかくれ住むといったイントン生活をするのでもない。
 釈尊の直弟子バッカリはなかなか、釈尊の直接正導を受ける事が出来なかった。すでに病におかされていてさぞ、心細く思っていた事であろう。本当の釈尊には誰しも容易には会えない。この日本の今日においてはなおさらである。様々な金パクの仏像が美術品としてテレビで家庭に入ってくるが、それはもう信仰でも何でもない。
 生きた釈尊に会うという事は、本当の意味合いは、釈尊が発見し、一生かかって正導された「縁起法の真理」を受け取るという事であると、釈尊自から云っておられる。それは単に無執着になる事でも、無念無想になる事でも、死後本位になる事でも、政治運動などでもない。真理に合致してどう生きるかという本番的な生き方論において、釈尊に面接するという事である。バッカリはその事をついに体得する。そして他に迷惑をかけないという積極的生き方をもって自殺という手段を選んだ。生きておれる私どもが、どれほど積極的に、真理的に生きているだろうか。いやおうなしに、生と死を考えさせてくれる、まさに貴重な体現的仏教の経典である。(三宝法典 第二部 第四七項 バッカリの捨身
 三宝 第157号 田辺聖恵