在家者の修行

 在家者の修行
 (一善友)−「六十からの熟成」「解脱」「新鮮の導入」の道詩を読み、目からウロコが落ちる様にはっきりいたしました。涙が止まりません。テレビ「こころの時代」を聴いておりましても実によく分かる様になりました。「求めると与えられる」とは本当なのだとしみじみかみしめております。どうぞお導き下さいませ。
 「人間熟成」−宗教的とも言える人間熟成に向かって目が開けてくる時に、人は本当に活き活きとなってきます。それはただ単に幸せであるかどうかという次元では無くなってくるからですね。人間熟成の学習を始めれば、大きな充実と喜びが待っているものです。
 「宗教の本質は人間熟成である」
 多くの宗教的天才は三五歳前後で一大転換をしています。私ども凡なる者でもそうした方向へ早い時期に目を開くのが良いに違いありません。何故ならばそれからの学習も、生活に引きずられながらの事で、随分と時間がかかるからです。結果必然ではありますが。
「在家者の修行」
 在家信者と出家修行者との違いは、修行をするかしないかの違いと云ってよいかも知れない。原始仏教においてはその事がハッキリしている。その修行とされていたのは主として静思(ジェーナ=真理の瞑想)である。もっとも釈尊は三種の修行を説いておられるから一つと決めねばならない訳ではない。その三通りとは見至と身証と信解である。見至は徹底理解・身証は体得・信解は信の徹底。いずれも徹底化がなければ修行とは云えない。月に一度半年に一度といったものを修行とはとても云えないであろう。
 修行はもともと、縁起の真理(後には空や本願)を学習し、体験化し、生活化し正導する事を目的とするものである。理解−静思−信、この三つは一人の人間において三つとも必要だと分かる。まるで理解出来ない事が信じられるものではないし、体得に行きつくと信じなければ静思をやってみる気にもならない。
 この頃はテレビでも僧侶の坐禅振りがよく紹介される様になった。それは珍しいという事であろうか。珍しいというのであればあちこちではなされていないという事を意味する。こうした僧侶の坐禅がたとえ一種の資格試験を意味するものであろうと、その修行自体を厳粛なものとして見る事が出来るのは有難い事である。
 かつて釈尊の信者であるチッタ長者がいた。そして一般的な信と知恵(覚り)との関係についてよく理解していた。教えによると、信・戒・聞・施・慧(信者の五法)も信・勤・念・定・慧(修行者の五根)も、信から慧へ〜信が徹すれば慧となるとなっている。
 チッタ長者は自からも静思行を永年続け、心の統一において四段階をマスターしていた。これは長者として生活に余裕があったことと、求める心が強くあったからのことであろう。このようにして覚りの一歩手前まできていたことが、彼自身の言葉として分かる。
 ここで感銘を受けることは、この様に心が進んでいるにも関わらず、多くの仏弟子たちに供養をし、尊敬をささげたという事である。
 自分なりに心境が進めば、後進の出家修道者に対して尊敬供養などは次第に薄れてくるのではなかろうか。しかし釈尊仏教においては個々のビク修道者がどの様な段階であるうと、サンガの一員である以上は三宝の中の一宝として(サンガは修道者の和合衆=宝)信者から尊敬供養されるものであった。今日の日本の様に寺や僧侶の感情的な批判を専らにし、では自分は正当信仰を持つかと反省する事がないような次第とおよそ異なるものである。
 修行又は修道は目的達成のための中心行動である。その行動が持続するためには、その準備と明確な目的が必要である。この三つワンセットを「戒・定・慧の三学」と云う。戒とは修道生活をしてゆく為の道徳規律である。最低五つ。「殺・盗・淫・うそ・酒飲み」 この五つの規律は在家者にも出家者にも共通する。ただし、出家者の淫は不淫、つまり男女関係を持たない事である。今、ニワトリをしめ殺してきて、サアこれから瞑想だと云って出来るものだろうか。酒を飲んでいい気持になって法を談じてもそれは趣味のたぐいでしかない。ところが日本仏教ではこれらの規律が宗教者の口から説かれることはまず、ほとんどない。その理由は聡明な方々がいろいろと考案しておられるようだ。
 理論づけはどうあろうと、静思行をやるのであれば、前準備が必要なのは容易に分かる事である。小学生でも学習の初めと終わりに挨拶ぐらいはする。もっとも合掌しながら酒を飲むという器用な事が日本では間々通用している。
 次には到達目的が明確であり、それの達成に並々ならぬ強烈な欲求がなければならない。その事において何ごとも替え難いという思いだ。無欲テンタンなどというのは年金生活者の余裕言かも知れない。本来、仏教ほど欲の深いものはない。生と死を超越した最大級の満足をくれというのだから。つまり永遠の生命なんかじや物足らんというのである。これではちょっとした神様も持て余すに違いない。勝手にしろだ。まさにこの勝手な話だ。しばしば仏教者が誤解されたり(人間の道に反すると)非難されたりするはずだ。
 永年、農耕民族として、しかも儒教道徳で教えられてきた人々にとって、純粋仏教の互恵性は理解し難いものに違いない。
 仏教の誤解と云えば、仏教者自身も超越思想としてヘンに誤解してきたフシがある。本来もともと仏けといった話。これではお釈かさまは必要でなくなる。もっとも欲さえ捨てればという条件つきらしいが。今日出家者が存在し得ない日本で、在家者は一体何を基準とし、その比較において自己を確かめる事が出来るであろうか。だが道はようやく開け出した。三宝を明らかに知る事によってだ。これから長い道のりが始まる、と云うべきであろうか。

      『生き方根拠』
   ただ単に飲み食いの満足を求める
   ただ単に自分中心の満足を求める
   そうした生き方の空しさ恐ろしさ
    人間は関わりにおいて存在し
    その筋道において生かされる
    そうした自覚において生きる           
   釈尊が発見された縁起の真理は
   今日いよいよその輝きを増す
   それは生き方の根拠だからだ
 「生き方根拠」−何の為に生きるのか(目的)、何を根拠に生きるのか(根拠)、どの様に生きるのか(方法)この三つが明確でないならば、真の充実も喜びも得られない。生き方を学として学習せねばならない理由がそこにある。
     「自分の生き方に徹する時、自ずから利他となる」
 学とは了解、納得である。人生とは生きる事の意味を了解し、その意味価値を実現する為に生きる事である。仮に他から何ら自分が認められなくても、自分で自分の存在価値を自覚出来た時に、人は例外なく充実と喜びが得られる。

三宝 第157号 田辺聖恵