釈尊が説く法句経

  「釈尊が説く法句経」
 ものみな心を先導とし、心を最上とし、心よりなる。清き心にてもの言い、かつ行うなれば、形に影が従ごうがごとく、楽しみが従いきたるなり。

       『心次第』     
   自分の心が何かに強制される
   自分の心が何かに束縛される
   自分の心が何かに不安がる
    自分の心が何かに疑いを持つ
    自分の心が何かに恐れを持つ
    自分の心が何かに諦めを持つ
   マイナスの心で暗闇になるか
   プラスの心で晴れ晴れとなるか
   自分の心次第と釈尊は導かれる

[心次第] 多くの信仰は神様次第、仏け様次第。従ってこちらの神、あちらの神と人間が品定めをし、力のある方にお願いする。釈尊は自分の心次第で自分の幸不幸は決まると、この限りなく迷い易い私たちを、正導して下さる。
     『真の人間理解は言行一致をもたらす』
 清らかな心、真に人間を理解した心で、言行を一致させてゆけば、必ず楽しみ真の幸福が得られる。自分の欲望満足を主体にしてゆけば、様々な工作をせねばならず、まさに虚構の人生で終わりかねない。ここに根本の判断がある。

 巻頭の法句は「法句経」の部首である。すでに法句経(ダンマーパダ)の名称をご存知の方も多いであろうが、これを座右銘のごとくなさる方は皆無に近いのではなかろうか。これは釈尊が直説されたものを、直弟子たちが記憶奉持して、後に書物化されたものである。それぞれが短文で詩句の形をとっているのは、又所々に身近な譬をまじえてあるのは、釈尊の詩ごころの現われでもあろうが、理解し易く、かつ憶え易いようにと配慮されての事である。
 仏教は神秘力を中心にした信仰ではない。文字通りの、ブッダ釈尊の教えであるから、分からねば話にならない。分かってもその場かぎりで忘れられてしまうのでは、何の効果ももたらすことにならない。
 ボダイ樹の下で、「一切は縁起する」という真理(ダンマ)を悟られた釈尊は、この真理によって解脱される。縁起という言葉も(同じ意味の空も)日本では日常語化しているが、それだけに大いに誤解使用されている。文学的に転用され拡大解釈されてゆくと、本来のものとはまるで違うものになる。
 日本人の大半が家としての宗旨を持ちながら、その大半が仏教を聞いたことも読んだこともなく、従って必要性を感じることがないという、無宗教国民になったのは何故だろうか。
 大半の人が俳句や短歌を好み自分でも作ってみるという高 度な文化性を持ちながら、お経は分からないものとしてかたづけている。これはやはり説者導者の方に問題があったとせねばならないであろう。それは後期経典のみが採用され、原始経典が伝承されなかったという事に根本の原因がある。
   
 人と生まるるはかたく、生命をながらえるはかたし。正法を聞くはかたく、諸仏の世に出でたもうはかたし。
 これは一八二項であるが、釈尊ご自身が、真理正法(ダンマ)の普及困難を感じられておられたからのお言葉であろう。
 誰でも何らかの目前の苦悩から聞法したり、教養として仏教書を読んだりはする。だが人間釈尊の真意がどこにあったかと追求する人はごくまれであろう。であれば仏教哲学に会えても人間釈尊に会うことは難しい。釈尊時においてすら、神秘を説かない釈尊に追随出来なかった人があまたいたし、現在のインドに仏教者はほとんどいない事でも、正法(真理)が伝えられる事の難しさを示していると言えよう。
 だが幸いな事に、この百年前から、原始経典が求めさえすれば誰でも読めるようになってきた。つまり原始志向が働き出したという次第である。この法句経の訳ならびに解説書も十指に近い。だが解説は啓蒙にはなるが経典そのものではない。私か心がけてきたのは、この経典化である。

 たとえ意義あることを説くことわずかなりとも、法にかのうて行い、むさぼり、怒り、愚ちをはなれ、正しき知恵をえ、心よく解脱し、この世かの世に執着なくば、覚りの一部を有するなり。 −二〇句

     『実現的宗教』
   己の案内役は己の心である
   心が決まらねば行く先不明
   筋道認識も状況認識も必要
    発言と行動は実際である
    脳内決定と行動は連動する
    この実際がなければ結果はない
   観念的信仰から実現的宗教へ
   釈尊仏教は本質的な転換である
   完全なる自己実現の指標である
 「実現的宗教」−蓮の花の上で瞑想する仏像が作られると、お救い下さる仏けへの観念信仰となり、釈尊仏教の特質はなくなる。お救いの神々はあまたいるからだ。目的→行動→結果の自己価値実現こそが、釈尊の本質仏教である。
  「自己の価値実現を目指す時に人間の宗教となる」
 観念的ユートピア信仰であればどの信仰でも間に合う。だが人間の存在価値を明確にする信仰は少く、ましてやその価値を自己実現する方式を持つ宗教となればどの様なものがあるだろうか。まずそうした選択をする必要がある。
  まことに、み仏けの教えに努力なす若きビクは、雲を出でし月のごとく、この世を照らすなり。−三八二句
 年を取ったらお寺詣り、というのが日本での通念かも知れない。そのお年寄りもゲートボールへ足が向く。若い人が聞法したり宗教活動したりする事はまことに少ない。葬式仏教じゃいけないと批判する人が、どの様な宗教を求めた事があるだろうか。ましてや、若くしてビクとなり宗教者となる人がどれ程居るだろうか。
 釈尊時には結婚間もない青年たちが、集団で釈尊へ弟子入りしている。それは人間の本質解明、その本質的な苦悩の解決、輝かしい宗教者として生きる、自己の存在価値に目覚めていったからだと原始経典は伝えている。平和革命とやらで仲聞をパイプでなぐり殺すという若者が続出するという日本には、やはり宗教エ不ルギーがないからであろう。
 若いビク修道者が修道をするだけでも、この世を照らすのである。それは殺さないという事に徹する事であり、それは直ちに他を生かす事にもなるのである。
 釈尊がこの言葉を口に出されたのは、その若い弟子を励ますおつもりだったかも知れない。又、若い人への期待でもあったろう。だが根本は若い時に身につけ、その後の生き方を充実させるのが釈尊仏教の本質だったのである。逆に、原始仏教を学ぶ人は修道する人は、若い人という事にもなろうか。