釈尊の聖言 「法施」

釈尊の聖言 「法施」
 ビクらよ、われは乞うものに施し、いかなる時も施す用意ある覚りの身、無上の大医者なり。
 おんみらはわが子、法より生まれ、法の相続者なり。財の相続者に非ず。
 ここに財施と法施との二種あり。法は常に財にすぐれたるものなり。
  「法施」
 宗教者から信者への法の施し、信者から宗教者への財の施し、この相互互恵によって仏教は成り立つ。山にこもって自給自足の体制にしてしまえば、互恵性はなくなり、仏教の真理「縁起としての互恵真理」の実行は無くなってしまう。それはむしろ仙人の道になるだろう。仏教者が法施と托鉢の精神と実行を忘れてしまえば独善孤高のものになってしまう。又財施ばかり当てにして国宝的建物ばかり建てても観光事業になりかねない。
 宗教者が一日一食の精神を忘れると、自分を権威化し高慢になる。蓄えずしてひたすら法施をする、これが仏教者の生き方であり、生と死を超えた生き方である。悟るという事はこうした生き方に徹する事である事を、釈尊の在り方を通して学ぶ事が出来る。
 この仏教基本線に添って生きる事は難しい。法を中心にし、法施を生きる事が悟るという事で、釈尊からわが子と認められる事である。仏教者たらんとする事はこの事の難しさ、重大さに気付かされる事に違いない。