釈尊の聖言 「われは知る」

釈尊の聖言
 バッタリよ、われは永き間、おんみの心を知りぬき、おんみがわが説法に対して熱心にあらず、耳を傾けざるを知れり。
 「われは知る」
 これはまた何という直接の言葉であろうか。仏け様とは慈悲の、すべてを抱きかかえて下さる方と思ってきた。確かにどの経典にも仏陀は大智大慈悲の方とある。だからこちらをすべて聞いて下さる方と思ってきた。愚ちを並べ、願いを申上げて、それらを聞きとどけて下さるものとしてきた。
 ところがである。こちらを聞いて貰うのでなく、仏様を聞かねばならないのである。これは逆転だ。熱心に聞くか聞かないかはこちらの問題である。ここに大人の宗教がある。聞いて下さいという子供心を卒業して、一体釈尊は何を説かれるのであるか、と耳を澄まさねばならない。
 ブッダ釈尊の慈悲とは何か。この永い間、じっと見つめ、聞く姿勢に育つまで待って居られる。何故その様に回り道をするのか。何故自己流の判断をするのかと。考えてみれば釈尊は何と二千五百年前から、待っておられるのだ。実に驚くべき事なのだ。