四段階の静思

「四段階の静思」
 釈尊仏教の中核は八聖道、八聖道の中核は正見・正定
  (正見は正しい考え方−正定は正しい成り切り)
 原始仏教という云い方はかなり一般化してきている。それを聞いて異様に感じる人はむしろ少ない。だがこの名称には注釈が要る。
 何故ならばそれが大乗仏教という名称の相対区分、小乗仏教と同じと思っている人が多いからである。小乗とは小さな乗り物、程度が低いという意味である。大乗は大きな乗り物、程度が高いという意味である。それは後期に作られた経典自体にその様に書いてあるから、昔の僧侶はそのままそうだと信じたようである。
 では程度が低いとされる原始経典(アゴン経ーアーガマ=伝承)には、釈尊の言葉として『お経に書いてあるからとか、師先生が云ったからといって信じてはならない。』と信仰者としてはビックリする様な教えが説いてある。それは何たる現代精神であろうか。
 では後続の者としてはどう考え、どう伝承したら善いのだろうか。
ここで又釈尊は明快である。『法と律に合わせて検討し、受容せよ』とその判断基準に照合して判断し、心情に溺れたり、自己流に流れたりするなと云う次第。法とは客観的な真理、自然と人間に一貫する縁起の理法(一切は変化し固定した本体は無い)である。律とは修道者同志の相関的な道徳規律である。その第一は殺し合わないという事である。この第一条だけでも守られれば戦争は無くなり、極悪な犯罪は無くなるよりしょうがない、というものだ。
 原始仏教時代は釈尊を中心にして直弟子の影響力が及んだと考えられる二百年間位を指す。お経としてはアーガマ経が主である。
 次の部派仏教(現在は上座部仏教と云う)はその後を意味し、論義を中心にする傾向があり、その解釈が固定化され形式化され、次第に宗教活動がおろそかになる安定期とされている。
 第三の時代とは、紀元元年前後から、出家僧でない家庭に在住する仏教者たちが、自らをボサツと称し、釈尊の法解釈に帰り、同じような宗教活動精神をもって宗教活動をせよ、という趣旨で様々な経典を作っていった。しかし在家ボサツが何ほどの宗教活動をしたかという実績は、歴史上その根跡すら見られない。そしてこの二系列とも現在のインドに無くなっている。
 宗教活動こそ釈尊の精神に帰ることであるとした、後期経典は中国に伝えられ、原始仏教性を排除した中国式仏教を形成し、共産主義国となって仏教は消失する。日本人はかつて後進国であったから、先進国中国の文化としてこれを取り入れる。聖徳太子はこれに反対する武力団と戦争し、勝利の御礼にと四天王寺を建てたと伝えられる。つまり殺すなという第一原則を破っての導入だから、日本仏教は権力者と結びつく体質を五百年も持続する。この間は宗教というよりも文化というべきかも知れない。何分にも庶民は対象外とされていたのだから。まさにいい気なものである。この時分に日本仏教の文化性文人性が形成されていったようだが、学者は研究しない。
 鎌倉時代になって時代の要請として、いや庶民の要請として仏教の一部が大衆に門戸を開くようになる。だが徳川時代になると寺社は権力の下部組織となり、上意下達の政治方式、封建的本山制度でがっちり信者は支配されていたと云えよう。
 釈尊仏教と称されるべき理由
 原始仏教・部派仏教・後期仏教と歴史的に見ると、それが理論中心である事が分かる。だが宗教である以上は、その理論を通してどの様に人間形成がされ、宗教者としての人格的生活活動をするか、という事が中心課題にならねばならない。つまり仏教によってどう生きたかという事である。すると、どのお経にどう書いてあるかよりも、どの様な生き方が望ましいかとなるであろう。鎌倉時代の新仏教と云われるものが、法然親鸞、道元、日蓮などの個性ある生き方によって展開されたものである事は誰しも認める所である。
 そうであるならば、仏教の原流である原始仏教は誰の生き方によるものであろうか。それは例外なく生きた一個の人間としての釈尊の生き方によるものである。今日この様に明白であれば、それは、釈尊仏教と称するのがふさわしいであろう。つまり仏教は誰によって、どの様な特長をもって開始されたものであるかを明らかにする事から、仏教は再考、再編成されねばならないという事である。
 と云うのも、後期になる程、釈尊に依らない仏教を立てる傾向があり、ある新興教団では、シャカは古くさいからダメ、脱益の仏けであると、釈尊を否定してはばからないものがすでに登場だからだ。
 思想分類ならばグループ分けも結構。だが宗教は政治などと異なり、それぞれの一己者がどの様に己を生きたかという事でなければ、およそ意味をなさい。所が日本では、家の宗教、つまり家の習慣として伝承されてきた面が強いから、己の生き方としての仏教観は非常に薄かったのである。いわゆる葬式仏教としての機能しか認められてこなかった。こうしてタテ前だけの仏教国という、個人名の無い仏教者を不思議と思わぬようにしてきたのである。
 釈尊仏教の特性−「四段階の静思−四禅」
 釈尊仏教における特徴は何か。もしその特徴の認識がなければ、今日それを改めて学習しようとする意欲は生じないであろう。ではその釈尊仏教の特徴とは何か。「考え方となり切り方」である。考え方としては、「一切は縁起するもの〜固定したものは何もない」という事で、現代風に説明すれば、一切は可能性に満ちているという、最も科学的認識論であり、かつ事実論である。
 ではその「なり切り方」とはいかなるものであるか。それは心身を安定して静思する事である。行動的には何もしないで、自分を含めて一切は相関的に存在し、その影響し合って変化してゆくという認識(事実)に、心底で静思して、なり切るのである。その具体方法の要点は「四禅」と云われる四段階的な静思である。

第一段 粗大雑念 さ細雑念 心的喜 体的楽 心統一
第二段                体的楽 心統一
第三段                体的楽 心統一
第四段   考えるでもなく、考えないでもなく心統一    

 これは雑念の許容という実際性から入り、次第に心の喜び、体の安楽という段階を経て、真理を考えるでもなく考えないでもなく、深層意識で考え、その深層意識を転換、定着させることで、真理の体験、なり切りをする。この方式は自己点検しながら習熟する方式。

三宝 第160号 田辺聖恵