尊信のある民主主義

 「尊信のある民主主義」
 日本の政治あるいは政治家に自浄能力が作動するか、と誰が本当に考えるであろうか。まあ困ったものだ。だがあまり変りばえはしないだろう−とまあ大方の人が他人ごとのように考える。
 それはこの民主主義的?政治形態及び政治家を自分の必要と責任において選択したという意識が皆無に近いという事からだろう。
 封建主義、軍国主義はいけないという。だがそれが全体主義のものである事をあまり考えない。今、地図を広げて色分けをすると実に驚くことがある。それは世界の半分近くが全体主義の国だという事実である。それはその国民が選択したのだから、とやかく言うべきではないという事になるかも知れない。
 ただこれらの全体主義国に共通するのは、宗教はアヘンなりとしてしめ出しているという事実である。
 さてこの愛さねばならぬ日本?はどうであろうか。民主主義がいかにシンドイものであるか、という実感があるだろうか。主権在民というのは、一人々々が政治に関心と責任を持つという事ではないのだろうか。
 ここに民主主義の一大典型がある。二千五百年前に釈尊によって指導され、実際に行われたものである。私は永年、この経典を善友各位に伝えたいと思ってきた。それは現在の日本においても、大いに尊重されるべき内容も持つものだからである。いかにも政治にうとい私のような一仏教者にとっても、よりよき民主主義が行われる事を願わざるを得ない。それは宗教抹殺の国にでもなったら、私は仏教者としては生命維持すら出来なくなるからである。
 さて今日の政治家不信は何からくるのか。金銭感覚のズレという事だろうか。しかし庶民がろくに乗りもしないヨットをキープしているという時代である。どうも金銭感覚がそんなに違うとは考えにくいのではなかろうか。それは金銭高感覚ではなく、唯銭感覚を意味するのではないか。庶民がその政治家を代表させるという名言もある。さて今日の唯銭感覚は、宗教感覚の代替ではなかろうか。
 釈尊はすぐれた民主主義という共和主義とでも言うべきものの基本を説いている。その中心が語り合いである。日本のように、何か感想はと問われて、『別にー』というより答えようもない育ちをしていて、どうして豊かな実のある対話が出来るだろうか。
 一対一的対話の習慣を持たないで、いきなり多数間討論などうまく出来るわけがない。日本的対話不足はどこから来ているか。それは勝ち負け意識ではなかろうか。まずは受験戦争に勝たねば、ダメな人間とラク印をおされてしまう。各人各様にといった仏教思想は通用しない。つまり黙って勝ちぬかねばならないのである。
 釈尊の生活行動を多くお伝えしてきたが、そのほとんどが、対話問答であることをお分かり頂けたのではなかろうか。この一篇においても、すぐれた対話者である事が伺える。雨行大臣の問いに対して、まず直接答えられず、弟子のアーナンダに答えさせておられる。
これは弟子の尊重であり、第三者的客観事実を第三者に提出させているという方式。そしてこの事実としての現状認識から論を進められるのである。単なる観念論、理想論でないという、足が地についた対話をしておられるのは、何と素晴らしい事であろうか。
(一善友)―私はまず「自分の在り方のより所」がほしいのです。仏教の事は全く分からないので、現代仏教入門という本を読んでいます。あまり分かりやすくはありませんが、法こそより所とあります。今は哲学的な本を読むのを止めました。なんだか空しいように思えてきたからです。仏教の学習によって田辺様が言われる自分の存在価値を考える事が出来るような気がします。ご指導下さい。
 [より所] 自分が生きてゆく上において、いわゆる安定幸福を求めるのか、意義価値を求めるのか、その生き方態度を決めないと、すべての学習が遠回りになりますね。それはマラソンかスキーかを決めないで走る練習をする様なものです。
     「自己目的と根拠は不可分関係にある」
 釈尊仏教はまず幸福と価値の仕分けをします。次にどちらを求めるか両方を求めるかと目的設定をする。それによって学習態度も決まってきます。つまり達成意欲の程度という事です。いずれにしても人生の三分の一では決めたいものです。
 上の対話文は若い女性との間のものであり、通信だからあまり委細を尽くしてはいない。それを補うために種々な法話テープをお送りしている。いかにも間のびした事のようであるが、この方のペースに合わせることにもなろう。まあ人生のそれこそ一大事を学習してゆく事だから、自分の自発的べースでなければ実効はない。
 哲学的思索はそれ自体価値のあるものである。だが自分の生き方と直結し、それを目的としているとは思えない。それに対して、仏教という宗教は、その思想信条を自己化して価値的に生きてゆく事である。従って従来の自分中心の幸福主義を生とすれば、そしてその結果を死とすれば、その生死の実際から離脱したものとなる。それを仏教では『生死を超える』という。しかしそれは仏教本を読んだ位の知識で得られるものではない。まず自分を俗的な幸福を求めるのか、それをさしおいて価値的に徹底しようとするのか、その両方を抱き合わせにして希望するのか、つまり自分の未来像を設定しなければならない。しばしば仏教思想を読んで高級だとか分からないという人に遭遇するが、自分をとんと置き忘れている。中にはハンニャ心経でご利益を願うというのだから、おシャカ様が直接説かれたことではないから仕方がないのかも知れないが、更に写経と称して千円かを付着させて納入させるという信仰操作者があまたいるというのが日本的状況である。中には衛星中継で御利益を中継するという、何とも恐るべき偽似仏教者がまかり通るのが日本である。
 釈尊仏教とは何か。釈尊ご白身が実行される事を教えられる。それは何と『聖黙と法談』である。聖黙とは自らを問う瞑想ジェーナである。法談とは雑談外という事である。仏教者の規律の中に、在家者のための使い走りをしてはいけない、というのがある。さて日本の僧職はどうかなどといった所で、これ又政治家云々と同じ事で、その自浄能力の問題である。
 釈尊は在家信者の雨行大臣には、それに適応する答をしておられる。それは修道者と同列に論ずることの無意味さを心得ておられるからだ。この雨行が退出した後、釈尊は周辺の弟子全員を呼び集められる。そして修道者、仏教者としての七つの衰えざるを法を、しかもいく通りもの系列として解説される。そこには信者と修道者をごっちゃにして混乱させる様な方式をとっては居られない。私はそこに真の指導者救導者というブッダの内容が如実に、まことに親切になされていると思うのである。まずは衰える事なく、真実に栄える事の意味合い、自らじっくり考えるべきではなかろうか。
(三宝 第163号)                  田辺聖恵