原始仏教講座 第六講(最終講) その九

第六講 その九
 これは本来は親孝行の道だから信者さん自身がすべきものです、ところが信者さんがしても、死んだ人は何処行ったか分らない、生きている間にそんなに仏教の勉強学習あまりしてませんから、行き先分らない、行き先分らないから、ご飯をあげた位では先祖さん何処行っても分らない。
 それで坊さんに行き先を教えてやって下さいと、お経に書いてることがその行き先ですから。真理の世界だから、で坊さんにお願いしてお経あげて貰う。お経あげてもらえばお賽銭を当然あげる、ということがあっていいわけです。ところがその坊さんがお経あげている時、漢文ですね大体、例えば法華経でも漢文で言う、聞いて分りますか、生きている人が聞いて分らない、死んだ人が何で分るか、建前と本音食い違ったままずーっと行くんです。実に不思議な宗教活動だかなんだか分らない事がいまだに行われている。
 実にわびしいと言うか、好い加減というか、で本来の姿に戻さなければならない。お釈迦様の時分にはお釈迦様達は死んだ人にお経あげるということはなさらなかった。全部生きている人にお話をする。生きている人を導く。生き方を導かれた。その生き方の延長として死んだ先があるわけで、生き方を教えないで、死んでから先を幾ら言ってみても、お浄土の金ぴかの世界があると言ってみたって、それは一種の幻想みたいにしかなりませんから。
 そういう意味で先祖供養はあって良いが、それは本来の宗教ではないということですね、道徳の世界である。だから道徳としては大いになさった方が良いです。そうすればどうなるかというと、いい事するからいい事が出てくるわけです。だから先祖供養すればいい事が出てきます。どうもうまくいかんと、一生懸命努力しても中々うまくいかんというようなことがあれば、まあちょっと先祖供養やってみられるといいですね。そうすると、うまくいくようになる、ああ矢張り先祖供養した方がいいのだなと体験を、あまり論理的でもないけれど、体験的にはお分りになりますから、先祖供養も考えられた方がいいです。先祖供養したって同じだという程度の人は道徳も分からないということになります。