妻を超える

「妻を超える」
 対機説法         
 「人を見て法を説く」−仏教は対機説法であるとよく云われる。対話であっても、セールスであっても、宗教上の正導であっても、学校教育であっても、子供の育て方であっても、相手がどんなであるか分らない事には、きり出しようがない。特に仏教は、人間がよりよき人間としてのあり方を、人間を通して、お互いに育てあってゆくものであるから、相手を分かり合うという事は必須条件となってくる。よりよき人間として生きるということは、よりよく分った状態になるということである。
 今の状態が分らねば、次のよりよき状態に進むことは出来ない。
 現状認識を明らかにすることによって、初めて、どうなりたいかという目的意識が生じてくる。従って仏教は、相手を分らせてやるという事、そのお手伝いをする事と云ってもよかろう。そのためには、相手の現在がどんなであるかがよく分らねばならない。
 「分つたか?」と親や教師は毎日これを連発する。「分りました」という返事が返ってくれば安心する。相手が分る状態になった事を喜ぶのではなくて、自分が教えた事が成功した事を自分が喜び満足する。子供は心得たもので、親を満足させてやる為に、よく分らないが、分ったと答える。子供の方が親を親らしくしてやるという次第。もしホンモノの親であれば、子供が分ったか分らないのか、聞かなくても見抜けなければならない。人に合わせて〜というよりもやはり、人を見抜いて、よく分って法を説かねばならない。この短いお経(七人の妻)の中に、釈尊仏教の真髄がこめられている、と学ぶべきであろう。法は覚るものであるが、また説くものであるからだ。
 一読して女性の方は、ずいぶん封建的な女性観だと反発されるのではなかろうか。今は男女同権の時代である。とまさにその通り。
 この頃の新聞は妻が夫を殺す話をちょいちょいのせている。この間までは愛人に夫を殺させていたが、この頃は自分で殺して愛人に運ばせるという、まさに主体的犯行。夫の仕事を理解せず−という点では世の大半がそうではあるまいか。夫の財産を盗むという話はピンとこないと思ったら、今は初めから夫と妻の財産は半分ずつなのだそうで、だから私も夫の退職金を半分貰って離婚するという同権者が増えている。夫をしいたげんとなす主人のごとき妻−これも多い。離婚された旧夫が、復縁をせまって元妻を殺す、しいたげられ夫のなれのはて。夫に大いに原因があるのは勿論だが、以上三人は男女同権の上を行っていると云うべきではなかろうか。 
 このようなニュース種になる様々妻の像を、釈尊がえがいて見せられたのは、少数でもそうした妻をあり得るとされたからに違いない。この二千五百年前の方が今に近い。ということはよほど開けていた時代と見るべきであろう。もし中世の封建時代なら想像すら出来ない。だから日本でも、心中という形で逃避したのだろう。これを悲恋などと美化する心情こそ封建性である。
 さて母のごとき妻I今の男性は共働きを条件として結婚しようとする。お金の方も半々でとなると、妻は次第に母型にならざるを得ない。これがうまくいっいてる方だが、子供にしわよせがきやすい。
 妹のごとく〜といっても、今日は情愛のこまやかさが失われてきているから、女性自身がめんどうくさいと思うのではなかろうか。
 友のごとき妻Iこれが今日風でよいようだが、こゝに一本クサビが打ってある。行い正しく、夫を敬う、この夫妻の間での尊敬、これが、無いと、動物の様な馴れ合いになってしまう。
  下座に徹する             
 今月風に云えばお手伝いさんであろうが、こゝでは下女、昔はむしろ身分の差があるのが当然とされていた。どの様にひどい目にあわされても怒力を抱かないというのは大変で、身分的なものがなければ堪えられるものではかろう。ところがこのスジャーターはいわゆるよき妻(自分も幸せを感じられる)をとらずに、妻以下と考えられる下女のごとき妻となると誓ったのである。
 昔の妻すべてがつねに苦しみにじっと堪えていたとも思われないが、また必らずしも愛情が土台になつていたとも云えない。何しろ夫婦の関係よりも、家本位、長男に後継ぎをさせるということが、至上命令に近かったから、長男を産む機械の様に思われていた事は事実。「嫁して三年、子なきは去る」というのは単なる諺ではなく生きていたのだから、ゾーツとする様な話である。家族制度を壊した新憲法がいけない、もとにもどせという人があるが、これが男の論理にすぎない事を考えねばならない。制度によってしか親をみる事が出来ないとすれば、親子の真情は昔も今もないという事で、何とお粗末な日本人よ、と云いたくなる。     
 さて本題に返って、こゝで、下女になるのでなく、下女のごとき妻になるという事に注意せねばならない。いたずらに、自己主張、自我の満足を求めるのではなく、何か大きなもの、尊敬すべきものに仕えるという心情をもっての妻になろうというのである。つまり愛情よりももう一段高度な敬愛心を持つということである。これは並みの女性では持つ事は出来ない。なぜなら人間にとって、何が大切か、何が幸福以上に価値があるものであるか、といった、つまり価値意識を持つ一個の人間としての自覚をもつ者としてのあリ方を示す者としての妻なのである。単に自分を幸福にしてくれるという、結婚を愛情の満足とだけしか受取れない、今日風の、男女同権的発想がいかにお粗末で、人間の表面的心情にすぎないものであるかを考えさせられる。なるほど過去の男性中心の封建的も結局は、貧しさから来ていてお粗末であった。 
 では同権的結婚はどうか。その実例がアメリカ。二組に一組が離婚、子供こそあわれな被害者。つまり同権思想には親子が入らないから、愛情がなくなれば離婚、子供はどっちかが仕方なしに育てる、これでは子供は家畜扱いになる。封建的も同権的も、自己中心の固まりで、人間としての未熟段階にあるものだ。仏教が教えようとする夫妻像はどういうものか。何も決して男が威張るようなものではない。在家信者のあり方を説く「六方礼経」にこうある。
妻は五つの事をもって夫より奉仕せらる。敬意をもち、礼儀を守り、あやまれる行いをなさず、権威を与え、飾り調えるものを提供することによりて。
妻は五つの事をもって夫を愛するなり。仕事をよくなし、傭人を親切に扱い、貞しゅくにして、財を守り、すべての事をたくみにつとめはげむなり。
 女性のことがまるきり出てこない論語、またこうした信者のあり方を説くアゴン経を完全に無視して、たゞ絶対境を説くばかりで、浮上ってしまっている事にトンと気付かなかった中国日本式仏教、随分時代を遅らせてしまったなあと思わせられる。今や米国も家庭の意味を見直し始めているという。日本はこの点も又々二十年遅れるのであろうか。夫妻のあり方を示されて二十世紀以上のものと感じるセンスが今の日本人に残されているであろうか。右のあり方が二千年以上に考えられていたのだから、釈尊の仏教がいかに人間をよく理解していたかが分る、驚嘆すべき事なのだ。習いたい事だ。

三宝 第115号 1983年4月8日