釈尊の聖言 「三宝帰依の徳」

釈尊の聖言 
「ブッダ世尊はあらゆる衆生にこえてすぐれたり。この第一にすぐれたるブッダに帰依をなすが故に、第一の徳を得て人間、天界に生まれてその福を受くるなり。法はブッダの開き現わし給う所にして、あらゆる法にこえてすぐれたり。この第一にすぐれたる法に帰依をなす故に、第一の徳を得て人間、天界に生まれてその福を受くるなり。サンガはブッダの弟子、和合の衆にして、あらゆる衆団にこえてすぐれたり。この第一にすぐれたるサンガに帰依をなすが故に、第一の徳を得て人間、天界に生まれてその福を受くるなり」

「三宝帰依の徳」
衆生とは生きている人間のことであるが、こえると云うのは、不思議な霊力などを持つ、人間とはまるで違う存在ということではない。人間であって最高の、人間としての理想の存在ということ。
ではなぜ尊く有難い、帰依の対象となるのであろうか。それは未だかって無き実理を明らかにし、自ら実践し、私達を正導救済して下さるからである。
法真理が分ってこないと、その道を開いて下さったブッダの有難さは感じられない。ところが、この法を縁あって正導して下さるのは、釈尊の道に従う弟子の集団の人々である。このサンガの働きが日本の場合、ごく微弱であるから、人々には縁が出来にくい。こうして三宝全部がまるでハッキリせず、特種化された教義が強調される。これについてゆけない人は、どうにもならない。このへんで、まず仏教の基本を明らかにする、啓蒙運動がなされねばならない。まずは三宝を明らかにする、そこからが仏教である。

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