釈尊の聖言 「業報と修」

 釈尊の聖言 
「ビクらよ、自らなしたる業の通りに報いを受けざるべからず、と云うが真実なれば、清浄の行いをなす必要なく、苦悩を滅ぼす機会もあり得ざるなり。
ビクらよ、小さき罪業をおかして地獄におちる衆生もあり、また同じ罪業をおかせるも、その報いをこの世においてはたし終え、未来に苦報を受けざるものあり。
身を修め、戒を修め、心を修め、知恵を修め、徳豊かに心広く、無量の善をそなゆる者は、小さき罪業をなすも、その報いを現世にはたして未来に苦報を受けざるなり。」

「業報と修」
現在の日本人は、ほとんどが死んだらしまいと思っている。死後に生きてきた報いを何らかの形で受けるという事実を信じられない。従って死後をおそれ、身をつつしむということが出来ない。日本全体が慢心で覆われている。
 まず死後を信じ、それをおそれる事から仏教が始まる。いきなり、空だ、成仏だなどとするから、自己を甘やかし、仏教的慢心を作り上げる事になりかねない。一方では先祖の死後供養をもって信仰をしていると思いこむ。 
 死後をおそれるからこそ、現在での信仰や修業、学習が熱心に行われる。死後の報いをぬいてしまえば、道徳ではあるが、過去、現在、未来という三世を解決することが出来ない。この三世を満たす人間学が仏教。そこから現在どう生きるかという、本当の生き方が出てくる。報いを考えない修養や幸福論は必ず行きづまると気付くべきだ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ