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釈尊の聖句 333

…(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二三 象品 六九頁) 知と信と行 老ゆるまで規律を保つは楽しく、信仰の確立は楽し。智恵を得るは楽しく、悪をなさざるは楽し。(田辺聖恵訳) ◎ことさらに悪をなさず、生活を正さねば罪業深重の教は分らない。救われると信じられるのは、本願が知恵(真押)の働きそののだから。いわれを聞くのは、合点、了解する為。さらに聞き進むのは、その了解を捨てる為。深い自己反省はそのくり返えしの後に生じる。悪をなさないから己が悪であると分らせて貰える。田辺聖恵

縁起の真理

『縁起の真理』 縁起の真理は人間を超えるものである この真理の普及正導を一生とされた釈尊 その釈尊こそ人間であり人間を超える存在だ 縁起の真理は人間によって悟られるものである この真理の学習体験によって人は苦を解決する こうした人こそ人間の本質を全うする事になる 縁起の真理は人間を通して伝わるものである 川の水が流れ流れて止まないような法の流れ この法の流れは人間のある限り絶える事はない 田辺聖恵

釈尊の聖句 332

…象品 六九頁) 仕える喜び 世間にて、子として母に仕えるは楽しく、また父に仕えるも楽し。世間にてシャモンに仕えるは楽しく、またバラモンに仕えるも楽し。(田辺聖恵訳) ◎仏教は出家法で、親も子も捨て、労働生産もしないという批判はあやまり。仕える精神は働くく精神である。在家者は親に仕え、さらに宗教者に仕える。宗教者は理想に仕え、大衆教化を働く。信を喜ぶことは甘えることでなく、奉仕すること。感恩報謝の奉仕が無ければ仏教徒とは云えない。在家道は働く喜びと仕える喜びにある。(田辺聖恵)

釈尊の聖句 330

…宛も林中における象の如くに。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二三 象品 六八頁) ひとり行く ひとり行くはすぐれたり。愚かなる者は友となすなかれ。ひとり行きて悪をなすなかれ。なすことなき林の中の象のごとく。(田辺聖恵訳) ◎自己確立とは友を頼らず、友にふり廻されぬことである。こゝに民主主義の本物がある。ムダごとを一切止める厳しさがブッダによって命ぜられる。文明のムダさ加減をまず知らねば、巻きこまれ、流される。坐とはなすことなし〜である。まず己を無用にせよ。田辺聖恵

日常者と宗教者

『日常者と宗教者』 あれこれ何かと忙しく立働き 殊更の問題が無ければ幸せそのもの それが平均的な日常生活者という事か 問題がない所に問題を投げかけ 幸せそのものに真の意味を問いかけ 生きるに値いするかと宗教は言う 真の宗教に縁遠くなった今日ではあるが それだからこそ真の宗教が受け容れられる その様な思索行動が宗教生活者という事か 田辺聖恵

釈尊の聖句 328

…て欣然彼と共に行くべし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二三 象品 六八頁) 共に行く もし考えぶかく正しき暮らしをなす賢き同行の友を得たらば、一切の危難を克服し、正念あり、喜びをもって彼と共に行くべし。(田辺聖恵訳) ◎真の同行を得ることは難しい。自己が確立していないから。もし得たならば互恵の力は二倍三倍となる。修行は進み、真の実践・実現の歯車は動き出す。社会の一隅をいかにするか、己の坐をムダには出来ない。大乗に乗せられ、その後押しをする、これ真仏教徒。田辺聖恵

釈尊賛

『釈尊賛』 人間を超える世界へと分け入られた釈尊 人間を超える真理真実を明かされた釈尊 人間としての究極を生きて行かれた釈尊 我を見る者は法を見よと言われた釈尊 日に一食托鉢によって食事された釈尊 人中に住まず人々に法を説かれた釈尊 二千五百年を経てようやく知り得る釈尊 インド中国を経て次第に明白になる釈尊 これからの人類にとって最も必要な釈尊 田辺聖恵

釈尊の聖句 327

…。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二三 象品 六八頁) 自己の発心 (おんみら)わがまゝならざるを楽しめ。おのれの心をよく守れ。みすずからを難路より救い出せ。泥沼におちこめる象が、みずからを救い出すがごとく。(田辺聖恵訳) ◎救いを求める前に、己は最善を尽したろうか。もうダメだと甘えの構造のまゝですぐに投げ出す。真剣な求めがなければ、気安めすら生れない。自力他力にこだわって二つとも失ってはいないか。仏教はこれから出発する。己をぬきにした仏教は、架空のもの。田辺聖恵

釈尊の聖句 325

…部経典一 法句経 二三 象品 六七頁) 大豚のごとく 餌に育てられたる大豚のごとく、眠りを好み大食をなし、うとうととして床に暮らすす時には、かの愚かなる人はいくたびも母胎に入るなり。(田辺聖恵訳) ◎ブロイラー人間がこの頃増大。たゞ幸せだけを求める人間が、動物以下になってゆく。輪廻転生の恐れを抱かぬ日本人は、楽の果いが苦であることを知らぬ。幸不幸すべてが社会に原因ありとすれば、何のための教育であろうか。宗教者こそ個人の義務と恐れと奉仕施行を説きかつ、実践せねばならぬ。田辺聖恵

心の安らぎ

「心の安らぎ」 田辺聖恵 後生があるか 日本は無宗教の国と云われる。なるほど、お正月には国中の半数位の人々が、お宮詣りをするし、天皇陛下の許に参賀する人も多い。 お墓作りも百万円以上もかけて、立派にする向きも多く、お坊さん方は毎日お経をあげに檀家廻りをしている。 それでも、外国人からは、日本人に宗教性を感じられない−というのはどういうわけであろうか。 宗教とは、宗(胸ムネ−一番大事なところ)の教えということである。人間の生き方において一番大事なことーを日本人がつかんでいるかど…

釈尊の聖句 324

…経 二三 象品 六七頁) 愛欲と自制 ダナパーラカと名づくる象は、けげしきさかりの時はおさえがたく、つながれては食もとらず。この象は相手のいる象の林を憶う。(田辺聖恵訳) ◎愛欲をせきとめられるとますますはげしくなる。では愛欲のまゝに動けばまともになるか。動物には発情期という自制機構がある。人間には自制心という機構があるのを気づかねばならぬ。これは訓練すれば発達する。無制限の肯定が社会と己を滅亡させつゝある。自制機構の根元に輝やいているものが知恵・大慧、拝すべきもの。田辺聖恵

仏教者の生き方

『仏教者の生き方』 人間いかにあるか 縁によって向上向下する存在である 学習をしなければ自分中心の固まりになる 人間いかにあるべきか 一切は縁によるとの真理性を学習体験し 愛他優先を喜び互恵的に生きる事である 真の安らぎは積極行動にしかない 縁によって生かされ縁を活かしてゆく この様に価値的に生きるのが仏教者である 田辺聖恵

釈尊の聖句 323

… 六七頁) まことの乗物 これらの乗物によりては、かって人がゆきづかざる所に至ることなし。たゞみずからの訓練によりて、ととのえられし人のみが(ニバーナ)に至る。(田辺聖恵訳) ◎釈尊が提供する乗物とは−戒・定・慧の三学。正しい生活と規律・正しい精神集中、等和・真理の体得−この三つの学習である。聞法し、自らの信心を確め、念仏、念法、念僧伽〜この三宝念さらに修道生活化が自己訓練。覚り救われというニバーナは遠大、しかし一日々々がそれに直結。心即身共々にこの乗物に乗托せねば。田辺聖恵

釈尊の聖句 318

…到る。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二二 地獄品 六六頁) 罪とは何か 罪なきことに罪ありと思い、罪あることに罪なしとみる。あやまれる考えをいだきて、人々は悪しき所に行く。(田辺聖恵訳) ◎方では罪深い凡夫であると安易にうけ売りし、一方ではまるで罪一つ無いとする。己をつきつめて考えないことによるので、そのことが罪深さの証拠。法律と道徳と宗教の各基準を明確にせよ。罪の意識をまず整理すべきだ。根本に何が正しいかという真理観が無いことには主観的ノイローゼ。(田辺聖恵)

仏教者

『仏教者』 釈尊が教え説かれる縁起法を学んで ものの考え方の基準とするのでなければ その人の人生観は定まらず仏教者とは言えない 縁起の真理法を知って分かって 毎日々々それを思い続けるのでなければ その人の心底は転換せず仏教者とは言えない 理性感情共に自己中心を離れ いくらかでも互恵行動をするのでなければ 真理との一体感は生ぜず仏教者とは言えない 田辺聖恵

釈尊の聖句 314

…悪しき行いはのちにその人を苦しむる。善き行いはなすがよりすぐれたり。それはのちにその人を苦しむることはなし。(田辺聖恵訳) ◎行いとは行動実践。実銭実働なき人生は死。では仏教徒の実践とは何か。善悪・幸不幸を明らかに知り、覚信の価値を知り、これらを実現することである。自他に対して己を施身、奉仕してゆくことである。日本仏教は行というとすぐに難行苦行をさし、出家の生活 信者の生活という生活行動の面がぬけている為に、観念のから廻りとなり易い。施行実践なき信仰はまさに停滞と死。田辺聖恵

最高の幸せへ向上

最高の幸せへ向上 田辺聖恵一、他の相に心の向けよ−転想の第一歩 二、悪しき思いのわざわいを調べよ−人生観の学習、善悪を明察。 三、思わざるかごとくせよ−無想の決意 四、思いの原因を調べよ−個別性の調査 五、堅き心にておさえよ−静坐の訓練目的−苦滅〜煩悩の束縛を断つ 方法−自己訓練〜人生観の体得仏教の肉身性 仏教は、人間に最高の幸せをもたらすものである。 仏教を開教された釈尊は、弟子信者から『世尊』『世尊』と呼ばれる。これはブハガバット(至福者)−最高の幸福にゆきつかれた方とい…

釈尊の聖句 312

…伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二二 地獄品 六五頁) 清浄の行 ゆるみたる行い、けがされたる規律、ためらいつゝなす清浄行、かゝるものに大いなる結果はなし。(田辺聖恵訳) ◎出家修道とは妻子を遠ざかり求道専心する者だから清浄行。自律他律共に守らねば、覚りという大果はない。ブッダ釈尊の戒しめに反して仏教の果はあり得ない。信者は清浄行者に仏陀に仕える如く仕えることによって信者となる。清浄行という浄化過程をぬいて自己流の信仰をしても、自己を甘やかした自己満足で終る。田辺聖恵

釈尊の聖句 309

…) ふしだら ふしだらにして他人の妻に近づくものは、四つのものにおち入る。非福の獲得、不安の臥眠、第三に非難、第四に地獄なり。(田辺聖恵訳) ◎今日のテレビの題材の半分がこれ。夫婦でありながらその道を破り、愛欲に狂うのは何故か。人間の解放という美名をあおり立ててきたのは誰か。人間に与えられた愛欲は、適度にして道を守るという前提による。それは動物には発情期という制限があるのに対応。人間の愛欲が無制限になった時、畜生以下、地獄におちる。人間の高貴さを取戻すことが人間解放。田辺聖恵

釈尊の聖句 308

… 六五頁) まつ赤な鉄丸 炎の如く、まっ赤に焼けただれたる鉄のかたまりを食うがすぐれたり。規律を破り、おのれをおさえず(人々の)施しの食を食うよりは。(田辺聖恵訳) ◎規律を破れば、出家修道者として第一の失格。従って施・供養の食を受ける資格がない。働いて喰わねばならぬのは、信者の信仰心のうすれでなく、修道者の精進の不足が真因。又正法を正導してこなかった積年の結果である。数百年の怠けのつぐないをする覚悟が正導者には必要だ。原因のすべてを己にみるのが本物の仏教なのだから。田辺聖恵

教えに導かれる

教えに導かれる 田辺聖恵 二千五百年前も今も問題となり易いのが嫁と姑の間である。もし人類が進化するのであるのなら、こうしたことはもうとっくに卒業してうまくゆきそうなものであるが、現在は親の方が同居を望むのが八十%近いのに、子の方は五十%しか望んでいない。都市では、一緒に暮らさない方が多いであろう。 ライオンやサイなど肉食動物は、大家族で暮らさない。それは餌の関係である。ところが、キリンや縞馬、ぞう、猿など草食動物は、集団で暮らす。草が充分にあるということと、強力な武器を持たぬ…

釈尊の聖句 307

… 出家の悪 ケサを身にまとうも、悪を行い、おのれをおさえざる者多し。かかる悪人は、その悪しき行いによりて、地獄に生まる。(田辺聖恵訳) ◎修道専心の道に入りながら、しかも心は、自己中心の欲望のとりことなる。釈尊時において直弟子ですら、こうしたみせかけの出家者が居た。今日のように、妻子を養わねばならぬ僧侶が、壇家の願いに応じて葬議や法事に専念、ケサがその箔付けにされていては、まさに名前ばかりとなる。今日は地獄におちるという恐れも持たない。悪囚悪果は仏教の絶対基本なのに。田辺聖恵

先祖供養は宗教にあらず

…養は宗教にあらず」 田辺聖恵 「水児供養の寺」という大きな看板を出して、それこそ繁昌しているお寺がある。一体三万円二体から割引きという新聞広告を見られた方も多いであろう。堕胎天国と云われてきた日本にも、反省が出てきたからであろうか。供養をしないと災難を受けると聞いて、罪の意識からというよりも、その災難だけはよけたい、という勝手さからであろうか。己の行いの報いを受けるのは必然であるから、いかに勝手な様ではあるが、水児供養もしないよりした方が良い。それを始めて三年もしてから初めて…

釈尊の聖句 305

…むものたるべし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二一 雑品 六四頁) 真の自立 一人坐り、一人寝て、また一人ゆきて倦まず。一人おのれを訓練し、林の中にて楽しむべし。(田辺聖恵訳) ◎人の中に、たゞ騒々しく暮らしていては真理を見ることが出来ない。一生の中、一度は、完全に自己を他から引き離さねばならない。こうした自立の訓練体得をどこでやるか。学校か家庭かお寺か。いつの時代にもその場は得がたい。あるのは亜流。まず工夫と不断の熱意を要するところ。心の中に林静を! 田辺聖恵

釈尊の聖句 304

…経 二一 雑品 六四頁) 山のごとく 遠くにあるとも、善人は顕われること、ヒマラヤ山のごとし。こゝにあるとも、悪人は見えざること、暗やみにはなれたる矢のごとし。(田辺聖恵訳) ◎善き人は輝くもの。その人の思想と行動は、それなりに波紋を作る。善き人は、自らの背景に偉大さを立てているからである。自己一身の力ではないことを知っている.そして巨大さを増してゆく.悪人は自らを卑小に卑小にとし自分自身を見失ってゆく。自らの矢に当って倒れてゆく。まず日向に自分を引き出さねばならぬ。田辺聖恵

釈尊の聖句 303

…尊敬せらる。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二一 雑品 六四頁) 善き信者 信心あり、規律を守り、名誉と財産を得たる者は、いかなる所におもむくも、その地にて尊敬せらる。(田辺聖恵訳) ◎こゝに在家信者の道がある。信心とまじめな生活実践。誠実によって他から認められ、勤勉によって財産を得、心と体に安定を得て善き信者となる。奉仕施業の価値と喜び、施の果が已に返ってくること、施の輪か大きく育つのを知る。心身の安定と実践は健康と幸福と和合を次々ともたらす。快心快身。田辺聖恵

釈尊の聖句 292

…小部経典一 法句経 二一 雑品 六二頁) たかぶり なすべきをなさず、なすべからざるをなし、たかぶりて、わがままなる人々には、煩悩はいよいよ増すなり。(田辺聖恵訳) ◎人間として生まれてきた以上、そのなさねばならぬことは何か。煩悩と対決することである。ところがそうした教えを軽んじ、自己をそのまゝ肯定し、皆そうなんだからと弁解し、己以上のものは無いとたかぶる。慢心は修道する者にも生じる。人とは違うのだと。自発性とわがまゝは混同され、己の墓を掘る。虚妄は虚業をつみ重ねる。田辺聖恵

釈尊の聖句 291

…なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 二一 雑品 六二頁) 他に苦・己に楽 他人に苦を与えておのれの楽を望む者、かゝる人はうらみにしばられ、それより脱することなし。ぬけ出しも得ず。(田辺聖恵訳) ◎産業拡大〜公害汚染。後悔先に立たず。被害多発してやっと改善。その間に『うらみ』はつみ重ねられる。まさに産業戦争。便利さの代価は大きい。なるほど勤勉によって衰亡からは逃れねばならぬが、己の幸せを祈っても、他の幸せを祈ったことがあるか。ともかく祈りを忘れた日本民族。田辺聖恵

経集 39

…(毎田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) 林の中にありて、しばられざるけものが、食を求めて好む所におもむくが如く、智ある者は己の好めるままに、一人遊行なすこと犀牛の如くせよ。(田辺聖恵訳) 林の中にあるとは俗塵を離れること。しばられざるとは己の欲望に束縛されないこと。食を求めるとは最低托鉢の生活ということ。こうして大智を求め大智に安住する者は、なに人にもいかなる権威もあてにする必要がない。真の独立者とは自己自身と斗い、己を克服したものである。斗うべき相手は己である。田辺聖恵

釈尊の聖句 290

… 小部経典一 法句経 二一 雑品 六二頁) 小楽・大楽 もし小さき楽を永く捨てゝ、大いなる楽を見るとせば、大いなる楽を見ることを望む賢者は、大楽=永久、小楽=瞬時。小さき楽を捨つべし。(田辺聖恵訳) ◎この人生は最大に貴重なチャンス。二度とあるかどうか。大楽とは覚り、全き救われ。たゞ両方同時には得られないことの厳しさが万人のものとなり難い。まずこの価値相違をよく連想せよ。覚りも救われも連想・思索の彼方〜信行を経て、豊かさの極。幼時より心の弾力性を養わねばならぬゆえん。田辺聖恵