先祖供養は宗教にあらず

「母父は五つの事をもって子より奉仕せらる。『よく育てられしわれは両親を養うべし。両親のために仕事をなすべし。家督を相続すべし。財の相続を正しくすべし。またもろもろの死者の霊に対し、時に応じたる供養をなすべし』と。」
「父母は五つの事をもって子を愛するなり。子の悪をなすをとどめ、善きことをなさしめ、技能を訓練せしめ、子のためよき配偶を求め、よろしき時に相続せしむ。」

                     (六方礼経の一部)
 「先祖供養は宗教にあらず」
                田辺聖恵
「水児供養の寺」という大きな看板を出して、それこそ繁昌しているお寺がある。一体三万円二体から割引きという新聞広告を見られた方も多いであろう。堕胎天国と云われてきた日本にも、反省が出てきたからであろうか。供養をしないと災難を受けると聞いて、罪の意識からというよりも、その災難だけはよけたい、という勝手さからであろうか。己の行いの報いを受けるのは必然であるから、いかに勝手な様ではあるが、水児供養もしないよりした方が良い。それを始めて三年もしてから初めて、罪の意識もハッキリしてくる。

 さて先祖供養を宗教・信仰の道と思いあやまっている人が多いのは、どうした事か。先祖の霊を拝むのだから信仰の一種だと思うのであろうか。お寺詣りやお説教を聞いたりはしないが、お墓詣りはよくする、という人も居る。お墓もたいがいの所が立派になった。しかし、お寺にはますます人が寄りつかなくなる。

 一体先祖供養とは何だろうか。単なる儀礼、習慣なのか、宗教なのか。上掲の六方礼経の一部分をお読み頂くと分る事であるが、子が親に対してする道となっている。親は子を養育し、子が長じれば老親を供養し、その延長線上に先祖の霊位に対し供養をする。礼拝があってもいいが、信仰するのではない。また宗教でもない。

 親が子を養育するのが、親子の道として当然であるならば、子が親子の道として先祖供養するのも当然の事である。ところが親の世話(供養)を福祉国家がするとなると、親も産み放しという、動物以下の人間がぞくぞくと登場してくる。従って、親子の道というものをことさら、教え−習う、という風にしないと、分らないという、何ともお粗末な国に、今や日本はなりつつある。家庭崩壊という大津波がおしかけてきているのである。

 こうなった事の責任の一端を宗教者も負わねばならない。なるほど敗戦という大波を冠りはしたが、実はそれ以前から、宗教者は、人間の道を明らかにしてこなかった。仏けの道を説いて、人間の道を明らかにしようとはしなかった。それは徳川幕府の一大政策、人民管理であったから−というべきかも知れない。寺社奉行をもって全国のお寺を管理したが、それはお寺に庶民を管理させるという事でもあった。管理と指導はまるきり違う。戦いのない日本統一を目ざした家康は、将軍になると三十五年後には寺社奉行を定着させている。キリシタン対策でもあるが信教の自由を押さえたのだから、思想統制という事でもある。そして道徳として儒教を奨励したから、仏教は道徳ぬきのものとなり、宗教と道徳は完全に分離されてしまった。これは他の宗教と較べると分る。ふつうは宗教(信仰)と道徳はあいまったもので、別系統から出てくるものではない。

 幕府は儒教によって生活・道徳を指導し。仏教によって観念面を指導した。日本の仏教が、政治権力に従属し、生活行動面を伴った絶対の全人性を確立するという事が出来なかった事は、仏教の本質を考える上では実に重要である。一個の人間が、観念性と生活性を二元的に指導されるならば、分裂的になるか、妥協的になるか、逃避的になるか、しかない。まさに主体性の喪失である。これをもって、日本的和という特性だとするならば、それは支配者側の発想だと云わざるを得ない。

 日本人が一個の人間としての主体性を持つ様になる為には、宗教と道徳とを、同一の原理から導き出し、かつ学習をするようにならねばならない。物的生活は科学的便利主義で、人間関係はナニワ節的心情主義で、宗教は教養的観念主義で、というバラバラ人間として生きているのだから、いかにモロイ存在であるか、という事が出来る。一寸ゆきづまると、自殺だ、道連れだ、となるのは、こうした、人間としての不統合性から来ていると考えねばなるまい。

 こうした日本社会の不統合性が、若者の非行となって、象徴的に現出してくる。そして困った事に、一方的な見方によって、この非行を押さえこもうとしている事である。宗教の次元をまるで考慮しない対策は、結局、圧力をかける事しか考えつかない。

仏教団体はどう考えているか
この頃は仏教書が多く読まれる様になった。お寺にゆくのは、何となくオックウだが、本なら勝手に読める、という事であろうか。

 さてその本であるが、ほとんどが、禅か親らんさんの「嘆異抄」の 解説。もしくはハンニャ心経の説明。この頃はさかんに経営の本として解説される。これではいよいよ宗教としての仏教はかすんでしまう。いずれにしても、先祖供養の意味などは書いてない。また先祖供養の本となると、先祖霊が、どの様に子孫に関わるか、それを供養したらどの様に難がかたづいたか−という実例ばかりで、原理もなければ、宗教との関連性も説かれないハウツウものになる。

 先般からお経の上げ方の本や録音テープも発売されているが、この度は講談社がお経の上げ方の本を出した。よほど売れると見通しをつけたからであろう。一冊千円だからお奨めしたい。ただし、それぞれの本山発行と違うから、禅系、浄土真宗系などは二派三派共 通する様に編集してあるので、まず書店で確めてからがよかろう。

 さて多くの宗派は先祖供養を読経の中にくり入れてある。従ってこれは宗教だという感じを受ける。先祖供養を宗教の範囲内だとしても良いが、それは相当の理由付けを必要とする。浄土真宗は、その解説で、明らかに、先祖供養はしない、としてある。それは生き ている自分自身が、アミダ仏の本願に、いかに関わってゆくか−という事であって、死者霊にお経を上げて、そのお経の力とか、供養する事の功徳力によって先祖の霊が救われたり、お浄土に行ったりするのではない、としてある。いわゆるお説教の場でも、その事に 関しては説明がなされない。そのために、大半の信者さんは、お坊さんが、命日の日に来られて、その霊にお経を上げて下さるのだ、と思いこんでいる。これもまことに奇妙だ。ハッキリさせねば−

 先の講談社本の巻末にも、その点をハッキリ本山の説明としてのせてある。道徳と宗教とは違うとする点は、宗教を明らかにするという点で、実に立派である。それは親らんさんの教理からもそうなるのである。アミダ仏の本願に一切おまかせする、というのがその信心であるから、私の信心のあり方をさしおいて、先祖霊をどうするか、などという話になるわけがない。そこで本願寺出版協会(京都市下京区堀川通花屋町)の発行本から、説明を引用させて頂こう。

 「盆会は各宗において毎年七月または八月、先亡の供養のために行われる仏事であるが、真宗ではもとよりかかる供養の仏事ではなく、生生世世の父母兄弟の恩を追憶し、仏恩の深重なることを念じ、仏徳を讃嘆し奉る仏事である。初盆に丁重に仏事をいとなむことは、故人をなっかしむ床しい美風であるが、真宗ではもとより故人を供養するのではなく、故人を追憶して、自身に深く無常の理を感じ、信心決定の上から、仏恩を仰ぐいとなみとすべきである。」

 なお「彼岸会」についても、「真宗はもとより平生業成のみ教であるから、修行のための仏事ではなく、この好時節を選んで、仏徳を讃嘆し奉る御縁を結ぶ事」であると。ここに明らかな様に、先祖をなつかしむ美風、習慣とはするが、供養するのではない。

 つけ加えると、真宗はお位牌も立てず、系図の様に掛け物にして下げるのが正式。法号(真宗は戒名としない)は「釈何々」として、何々院、何々殿など階級的なつけ方はせず、仏者として同胞つまり無階級を強調する。また仏様にと水を上げるのは好ましくないと。
 さてこの様に真宗は純粋な仏教として、宗教性を明確にする事は驚嘆に価いする事である。なぜなら他宗は先祖供養がなぜ宗教行事なのかを明確にせぬまま、抱えこみ、さらには、その霊的供養という事で、タタリや災難よけに結びつけ、宗教そのものを分りにくいものにしている傾向があるからである。

 仏教と先祖供養はどこが接点か
 供養とは、もともと食物をお供えして、喰べて貰って身体を養って貰うという事である。信者が宗教者にさし上げる事で、オレが養ってやるぞ、といった事ではない。ところが日本では先祖に対してする供養となってしまった為に、先祖霊との関わり、一種の信仰となってしまったのであろう。供養はこちらの気持から、食べ物をお供えするが、この場合は、もし先祖が喰べたら残りはないはずだから、お下がりと云って自分達が喰べてしまうのはおかしい。

 そこで供養したものは、他に施して喰べて貰わねばならない。次に先祖の心(霊的なもの)はどうなっているか、と考えるなら、ただ食物をさし上げただけでは、死んでから後の在り方、行く先が分らないであろうから、そこを伝えねばならない。その心の在り方を
説いてあるのがお経であるから、これを分る様に宗教者に読んで貰い、先祖と自分とが共に聞き、分らせて貰い、信じさせて貰う様にする。先祖意識は自分の深層意識に受けつがれているから、自分が分かり、信じた分を、精神集中によって先祖意識に伝達させる。

 こうして先祖意識は、法の世界へ行く。勿論先祖が生前に、宗教に徹底していたなら、これらの供養は必要でなく、感謝のみでよい。

 この様に先祖意識へ仏教の教法を伝えるとなれば、仏教の行事だという事になる。自分をぬきにして先祖にお経を上げて貰うという形だけのものは、習慣で、実効をもたらすものではない。先祖供養を軽視するのは、実効を知らないからで、また先祖供養だけですませるのも宗教を知らなさすぎる。二つともぬけてしまえば、まさに動物的存在にすぎなくなる。日本仏教のアイマイさを脱皮する時だ。
 三宝 第117号 1983年6月8日刊

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