心の安らぎ

「心の安らぎ」
                                  田辺聖恵
後生があるか
日本は無宗教の国と云われる。なるほど、お正月には国中の半数位の人々が、お宮詣りをするし、天皇陛下の許に参賀する人も多い。
お墓作りも百万円以上もかけて、立派にする向きも多く、お坊さん方は毎日お経をあげに檀家廻りをしている。
それでも、外国人からは、日本人に宗教性を感じられない−というのはどういうわけであろうか。
宗教とは、宗(胸ムネ−一番大事なところ)の教えということである。人間の生き方において一番大事なことーを日本人がつかんでいるかどうかということ、ここが問題である。右にあげたような行事的なものは、習慣というに近く、真に心の深奥の問題となってはいない。
お墓詣りにしても、死んだ人の霊がそこにあるという確な考えからするのでもなく、家々にお経をあげに来て貰っても、そのお経の中味を知ることもなく、さほど喜びを感じるというふうでもない。
実際、漢文のまゝの(すでに日本語ではない)経文をしかも低声で節をつけて読まれては、分るわけがない。
したがって、儀式としての意義がしっかりつかめていない人にとっては全く、一つの習慣でしかない。何か日常的な用事があれば、そちらを優先させるという程度なのだから、一番大事なこととしてはとらえられていない。
先日も、老人会六十名あまりの出席者に死後の霊の存在を質問したら、たった一名があると思い、四分の一が分らない、大半は無いと思うということであった。六十五才以上の方々ですらこうなのだから、若い人ならなおさらであろう。
この死後の存在を信じないということは問題にしないということであって、従って死後への恐れも畏敬もない。これはまことに重大なことである。あるのは死への恐れか。
仏教の覚りとは、死後、いかなる形においても、生れ変ることはないという確信に到達するということである。それは、死後、楽になりたい(楽=幸せ=天国)という欲求(因)があり、善を行えば(縁)→果として天に生れ変るという信仰、悪いことをすれば(因と縁)地獄道や餓飢道、畜生道におちこむ(再生)という信仰があることの上において、成立することである。そのように中途半端なところに生れ変るから(苦)、悟って生れ変らないようにするというのが(不苦)仏教の狙いである。
つまり、死後への畏怖畏敬があっての上での、覚りである。ところが今日の日本人の大部分は、死後へのこのような畏怖を持たないことの上での『死んだらしまい』『何もない』といういわば無知による虚無論からきているのであるから、覚りでも徹底でもない。
こうした人々に死後の往生を説いても、どのような反応があるのだろうか。浄土真宗の蓮如上人は「後世をしらざる人を愚者とす・・・後世をしるを智者とす・・」 「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえとたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ・・・」『だゞ深く願うべきは後生なり・・・』と、後世後生を強調している。これは後生が悪いという信仰信念の上になり立つ話であるから、死後がないとする人々には、まるで反応がないのが当然。
そこでこの頃のお寺のお説教では、往生や極楽浄土の話があまり出ないと云う。これは、大衆への迎合なのか、教えの変質なのか、本質への立帰りなのか。      
畜生で終るな
さて、釈尊に帰ろう。釈尊時においては、人は七度びも生れ変る(輪廻=サンサーラ)というインド人の信仰の土壌なので、その上で法を説いておられるのである。因と縁があれば果がある。これは、一生中に因縁果があることは誰でも経験するのであるから、長い目で見ると、生前、一生、死後(前世、今世、来世)と三世が因縁果と継続してゆくはずだと考えるのが妥当である。
つまり死後の体験は出来ないにしても類推は可能である。むしろこの類推の能力が人間なのであって、動物一般にはこれが無い。すると死んだらしまいという人々は動物的短見で終始しているということになる。目に見える面だけしか信じられないというのは、宗教的でないのは勿論だが、科学的でもないのである。
このように、死後に不明なるも愚痴、無いと確証もないのに断定するのも愚痴。この愚痴を仏教では畜生道という。死後をまたず、日々が畜生の道を行っているということである。
よき信者というものは、この未だ明確でないものは明確でないとすることである。従って今日の日本ではこの死後は明確でないという点に立って、法が説かれねばならない。死後がないという断定の上に、よりよき人生を築くということはごく少数の上でしかない。
仏教的には死後にいかなる形でも、自分からは再生を願わないという悟りの上から、人生を創造的に価値ある生き方をするということである。
死後を初めから無いとするのは、断滅論と云って、それは邪見、間違った考えであり、仏教ではないとする。現実にそうした人々は、どうせこの世だけなのだから、飲んだり喰ったり、愛欲そのまゝに生きよう、それが一番人間らしい生き方なのである、といった自己弁護をし、酒おんなバクチ、最後は麻薬殺人と落ちこんでゆく。感覚の享楽のみを求め、動物になり切ってしまう。いや動物以下になって、得々としているのである。
つまり死後なんか無いという人々は、少数を除いて、愛欲を限りなく求め、それが得られると、もうすぐ不満となって、それ以上の刺激を求めるという次第で、今日、テレビ新聞をみておれば、その人たちがまさに生きながらの地獄、畜生ということがありありと見えるのである。これが物が豊かになって、生き易くなった福祉国家日本のなれのはてなのである。幸せだけを求めるという考えで三十年やってきたら、欲望が肥大して、怒りがますます激しくなってきて、手がつけられないというところである。大半の人はゴルフ、マージャン、植木いじりといったところで満足しているのだから、そんなにさわぎ心配することはないと思うのであろう。しかし、小学生の万引、中学生の売春となってきて、対岸の火事などと思うならその人はまさに、自己だけしか考えない、偏狭な思考の亡者なのだ。
逆にそうした大人の他への無関心さが、こうした若者を自己の満足のみにかり立てゝしまったと云うべきである。お寺のすじ向かいに立ててある、裸体映画ポスターに心を痛めないというなら、それはまさに大人の無関心なのである。
釈尊は衣について、寒暖を調節し、かくすべきをかくすものとしておられる。儀式やこけおどしのものではない。この少くともかくすべきをかくす心の思いやりがあって、はじめて人間らしさが出てくるというのに。つまり、愛欲、怒り、愚痴この三毒煩悩に対してどのように真剣に立ち向かい、それをのりこえて、真の平安にゆきつくか、−このような斗いのないところに仏教はない。愛欲をそのまゝ肯定し、それを覚りと感違いするのでは、仏教の皮を冠った畜生道である。今日のように恋愛の自由と、性の乱れとの区別もなく、堕落を解放と錯覚し、一方ではそれを見て見ぬふりをしての無関心さ、こんなところに心を走らすことがないなら、自らを駄目にしてゆくことである。仏教がなぜ、愛欲煩悩を重視するか、それは人間と畜生との限界がたやすくくずされることがあるからである。
 真の宗教を取りもどし、帰依し、その教えをより深くかみしめるところから再出発せねば、この日本のドロ沼性から脱出出来はしない。幸福論は宗教論(人間の価値論)とかねあいの上でなされないといけない。「われこころよく眠るなり」と云われ、この確かな釈尊がいかにはるかなものであるか、そしてまたいかに身近かにすべきか。霜のおりる林の中で、静かに野宿される仏けさま−は一体誰のために、このような旅を続けられるのか−この真のくもりない安らぎが、私に伝わってくるのである。何とありがたいことであろうか。じっとしてはがれない有難さなのである。 合掌拝。
 浄福 第46号 1977年6月1日刊

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