最高の幸せへ向上

 最高の幸せへ向上
                   田辺聖恵

一、他の相に心の向けよ−転想の第一歩
二、悪しき思いのわざわいを調べよ−人生観の学習、善悪を明察。
三、思わざるかごとくせよ−無想の決意
四、思いの原因を調べよ−個別性の調査
五、堅き心にておさえよ−静坐の訓練

目的−苦滅〜煩悩の束縛を断つ
方法−自己訓練〜人生観の体得

仏教の肉身性
 仏教は、人間に最高の幸せをもたらすものである。
 仏教を開教された釈尊は、弟子信者から『世尊』『世尊』と呼ばれる。これはブハガバット(至福者)−最高の幸福にゆきつかれた方ということである。ブッダ世尊は、肉身をもっておられたからこそ、自ら覚り、人々を救い導くことが出来たのである。
 覚るとは精神作用のことである。従って人間でなければ出来ることではない。法ないし法の仏けは覚ることは出来ないし、又ありえないことである。ところが経典に漢文で覚者とあると、直ちに完成者、最高能力者、不思議者という意味になってしまい、覚るという精神能力の意味合いがなかなかつかみとれない。
 覚るということは、人間性をぬきにしてはあり得ないのである。もし釈尊に肉身がなかったならば、人間としての悩み、愛欲、愚かさが何たるものかも分らぬし、従ってそれからの脱出法を見出すこともなかったであろう。そして人類は相変らず、不思議力のみの仰で右往左往していることであろう。
 インドの一地方王子として生まれ、結婚生活十年、地位、名誉、信財産、愛情、保障すべてがそろっていたのに、しかもなお、それだけでは本当に満たされるものではないと、その一般的な幸福から、それ以上の最高の幸福を求めて出家された。幸福を捨てることによって最高の幸福、至福を求められ、ついにそれを達成、成就されたから、至福者、世尊と呼ばれたのである。
このように一般的幸福を求める−得られる−それでも本当の満足は得られないということを知りつくされたが故に、仏けの肩書きの中に世間解というのがあげられている。世間、通俗一般が分らずして、それからの解脱はあり得ない。一が分らねば五は分らないし、ましてやゼロはなおさら分らない。肉身性のない仏けなどは存在しないし、覚りもない。そこで浄土門のアミダ仏にも法蔵ボサツの肉身性がこめられているのだが、従来この面は不問にされてきた。
 どの仏けにしてもそうであるが、信ずる前にまず信を確なものにする理解が必要である。アミダ仏は色も形もないと云われながら、一方では無量の生命、無量の光といわれるのは、やはりそこに肉身性、人格性を見ようとするものとも云えよう。報身仏とされるアミダ仏も応身仏性がこめられているのだが、そのことが脱落し、もっぱら親鸞聖人の肉身性が強調される。ご本尊としてのみ仏けに肉身性をぬく時は、その宗派の開祖の肉身性が強調される。キリスト教においても十字架にかかり、血を流したイエスキリストの肉身性が二千年の信仰を持続させているのではなかろうか。
 なぜならば、弟子信者にとって最大の問題はこの肉身があるということだからである。この肉身があるからこそ、その欲求を満たそうと、はてしなく追い求め、その過熱化から、苦悩を深め、その反動としてのむなしさがいたたまれないものしてゆく。
 仏教は、この肉身から発生するはてしない欲望についてどう対処するかという全くの現実から出発する。仏性があるとか罪業深重とかいった本質論哲学から出発するものではなかった。
 健全な自己反省の能力のある者のみが仏教徒となる。それは仏教という教えのシステムにのって学習するものであるから(信も学習の一形態)自発性が要求される。たとえ初めに強制があっても、自発的になったところから仏教徒となる。自己反省に健全性がいるのは、仏教が万人のためを志向しているからである。
 己に肉身性が仏陀世尊(釈尊)の肉身性と共通の場としてあるということこそ大衆への道が開けていることなのである。

 仏教の目的論
 肉身性を煩悩と云うのであるが、これは仏教の教学である。
   三毒煩悩−愚痴、欲、怒り
 子煩悩などといって愛情のように使われているが、本来は煩らわしく悩むという字である。理知性の裏づけがある愛情ならいいが、いわゆる深なさけとなると、お互いが苦しみあうことになる。愛情とは感情であるが、それにまことの知恵(真理認識を根底にするもの)がないことが、人類の悲劇をくりかえすことであり、その知恵を開発し得ることが人類の救いでもある。
 煩悩の最悪なのが「怒り」である。その怒りは、はてしない欲望から発生する。世界同時革命などという欲求は、乱射多数殺害となって怒りどころか人々を抹殺してしまう。
 仏教で云う欲とは、ラーガ(はてしのない貪りの欲)、タンハ(渇愛−砂漠でのどから手が出るように水をほしがるような愛欲)のことで、いわば三度の食事をふつうに喰べるのは欲などではない。
 専修の仏弟子にしても『衣・食・住・薬』は四つの資具と云われ、修道に必要なものとして大切にされる。一切の欲を捨てよなどというのは仏教ではない。怒りをもたらし多くの人を苦しめるような激しい欲望を捨てよというのである。
 ではどうしたら、そのような貪欲、渇愛が発生するのか、それは真理(心理でもある)を知らないからである。真理とは、釈尊が説かれるのは、宇宙がどうだこうだということではなく、人間は「いかにあり」「いかにあるべきか」ということである。人間は変転流動して止まないもの、これが人間の現実理解である。
従ってそれはあてにならない存在、苦になる存在である。だからあてにしない、激しい欲望に身をまかせない、これがあるべき姿である。そして互恵を活かしてゆく、これが人間観である。
 不満、怒り、嫉み、焦り、怠け、無関心、無感動、無責任、無気力、それらからの疲れにあえいでいるのは何故か。まずそういう、現状認識をせねばならぬ。その原因は何か、貪欲、渇愛である。
 ではその貪欲渇愛は何によるか愚痴(無智無明)だからである。
このようにシステム的に学習し、苦滅、真の幸福を得たいという目的をはっきりと持つようになる。こゝから方法修道となる。

 仏教のシステム論
 仏教は苦滅して他の為に生きるという理想的人格を作るものであるから最高の教育である。教育とは学習に適したシステム性をもつ  システム−目的・方法・修正・継続・到達ということである。方法論が生きたものとなる為には自己訓練をつねに深めるところの人間学がなければならない。
 さて釈尊は、自らの肉身性を通して、まことに具体的に五つの心の転換向上の要領を教えられる。一、目的を明らかにする。どうなりたいのか。人間観の学習。その目的、善き相に心を常時向けられるならば以下は不要。二、に悪の結果を思え。三、どうでも想わぬようにせよ。こゝは決意の強化が必要となる。四、さらに己の特別な素質や因縁は無いか。五、最後に身体的強制訓練をする。自発的自己規制。
 この静坐法は心・呼吸・坐り方(心・息・体)の三つから成る。心は先の人間観(正・善・聖)を認識。呼吸は静かに整えて心身安定のつなぎとする。坐り方は己に適したのでよく、腰骨を立てるのが要点。肩の力をぬき、最少のエネルギー消費に保つ。こうした訓練は精神集中を深め、ついに深層意識において、人間観真理観が納得了解される。これが覚り、苦滅、解脱、歓喜、自由、平等、慈悲となる。しかし以上の五つの要領はいわば専修の道であるから、その前提に三宝への確信、サン悔、誓い、自己規制がなければならない。いきなり坐ってみて雑念ばかりなどというのは、全く仏教の冒〓であり、迷惑を深めるだけでしかない。
 右の五つは浄土門ならば一、アミダ仏の善相 二、自己悪 三、本願名号への帰入 四、個別悪 五、仏との面坐唱名―これら信一本に集約する。
 まことに親切な道を喜ばねばあい済まないことである。
 浄福 第44号 1977年4月1日

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