教えに導かれる

 教えに導かれる  
                                 田辺聖恵
 二千五百年前も今も問題となり易いのが嫁と姑の間である。もし人類が進化するのであるのなら、こうしたことはもうとっくに卒業してうまくゆきそうなものであるが、現在は親の方が同居を望むのが八十%近いのに、子の方は五十%しか望んでいない。都市では、一緒に暮らさない方が多いであろう。
 ライオンやサイなど肉食動物は、大家族で暮らさない。それは餌の関係である。ところが、キリンや縞馬、ぞう、猿など草食動物は、集団で暮らす。草が充分にあるということと、強力な武器を持たぬ故に、集団で肉食獣からの攻撃をさけようとするのである。この集団性が、仲間愛を育てゝいったと考えられる。
 人間も貧しい中は協力し、より添いあって暮らすが、金を持つようになると、金をあてにするからバラバラになる。金の力をあてにするということは、実は人間でなくなるということである。
 こうして文明社会は、ある頂点に達すると崩壊する。ニューヨークの夜が一人歩き出来ないほど治安が乱れているというのは、文明の極の崩壊を示していると云えよう。七三年には東京では百九十六件ニューヨークでは千六百八十件の殺人事件。ニューヨークで三千七百世五件の強姦事件、東京では四百二十六件。ニューヨークの八万二千七百世一件の自動車泥棒に対し、東京では三千五百五十件とのこと。(『人は城、人は石垣』ギブニー著サイマル出版会より)
 件数が十分の一ということは日本のよさがあるようだが、やがてそうなると考えれば楽観は許されない。
 さて問題があると、別居という形でしか処理できないということは、人間の愛能力の退化といわざるをえない。また核家族で、夫婦のどちらかが死亡すれば、残った者は何らの支えをも持たずに自らの生活と子供を育てるという重荷を一人で背負わねばならない。
 人間には二つの愛が与えられている。
  自愛―自我愛―自己中心性―(生存の原点)
  他愛―同 情―社 会 性―(共存の原点)
 この二つは、自他共に生きるということで結局は一つのことなのであろうが、今日のように自我心が強く、鮮明になってくると、これを人間的解放と称し、ますます自己中心性を強調するようになる。
 そして他愛、協調の方はどんどん薄れてゆく。自我心が発達するものなら、この社会性も発達しそうなものだが、自ら協調、共存ということをやるべきところを、すべて、国家がすべきだとして主張し、己は他に対して何も奉仕しようとしないのだから、結局文明とはー人間的退化と云わざるを得ない。
 それは丁度、ロボットのようなもので、動かされて自己活動はするが、他を愛するということはしない。文明人とはこのロボットのように、己の自我心、自己中心性という煩悩に振り廻わされ、つき動かされているのである。
 若い嫁というものは、その若さの故に、自我を主張し、その自己中心性に落ちこみ易いものである。自分が親によって、さんざんの苦労によって育てられたということを気づくことはない。たいがいの親は、そんな苦労話をわが子に語ろうとはしない。それは恩着せがましいと思うからである。しかし子供は、未経験のことだから、親の苦労は想像することすら出来ない。そのまゝ姑のいる家庭に入れば、その姑に育てられた恩を感じることも出来ないし、他愛の心もはっきり持てない。たゞ重荷のようにしか感じられないのである。
 今日のように自我尊重の教育ばかりに馴らされて、親の恩を教えられることがない子は、結局、育てられたという事実に気づくことがない。
自我の満足だけが幸福だと思いこみ、親、老人、社会すべてを邪魔だと考える。
 これらが戦後三十年の教育の総決算ということになる。教え育てられるべきことは、自分が親、社会、国家、自然のおかげによって育てられたという事実をはっきり体得するということなのである。自我中心性は別に教えなくても本来持っているのだから放っておいてものびてくる。しかし恩恵を知るためには教え育てられねばならない。
 本人が知らぬが故に最も教えねばならぬことが欠けているのが、今日の教育である。そしてもっと悪いことは、そうしたことに感銘を与えるべき宗教者が全んどいないで、物的御利益を強調する信仰団体がはびこりすぎることである。学校も信仰団体も共に「未
知」の未熟者に、自我欲というアメ玉を与えて喜ばし、甘やかし、それによって自らが好かれる。
いい子になろうとしている。これでは教導の資格はない。営業にすぎない。
 信仰と宗教の違いは、自我を甘やかすか、たゝくかの違いである。おさい銭を吸収し貯えるか(本山化)吐き出すか(無本山化)の違いである。無一物を覚悟せねば苦いことは云えるものではない。また、人間の中に俗性と善性、聖性とがあることを透徹して知らねば教導は出来ない。
 嫁と姑がうまくゆかぬのは、そのどちらもが、自愛と他愛その二つが調和せねばならぬことに気づかぬことによる。また死別などで苦しむのも、愛を受けるものとのみ思いこんできて、自愛だけしか知らず、他愛を知らぬが故に、愛されることを失って、どう生きてよいか分らなくなるのである。他愛しそして善い意味で自ら愛することを知れば、相手が身近かであろうが、死別しておろうが変ることはない。
     根底にある人間愛
  「悪しき扱いを受くるも、おんみ自身正しき法を捨てざれば・・・」
−人間が幸、不幸になる別れ目は、相手から、どう扱われるかに重点があるのでなく、自分かどうやってゆくか、どのような愛情を持つかに重点があるのである。
 真の自我、本当の価値ある自分を育てあげるということは、自分か他に対して、もっともっと誠実な愛を持てるようになるということである。それは決してつけ焼刃などではなく、人間の本来性として他愛の心は持っているのである。たゞあまりにも、自我欲を解放され、更に刺激されてしまって、自我が肥大してしまっているから、目がくらんで見えなくなっているにすぎない。
 そこで真の宗教、人間とは何か、自然はどうなっているかを習うことが必要となる。人間をとりまく自然は決して、人間の我欲中心に動いているのではない。ところが人間は、己が自然の一員であることを忘れ、自分だけの幸せがあるがごとき錯覚を持つようになった。これは知性のゆきすぎか「未だ到らず」なのか分らない。
 幸せという甘やかしの幸福論を見たり聞いたりする前に、生きていることだけで、有難いと思うかどうかをよくよく教導されねばならない。幸せだから生きているのがよいという考えは、幸せでなければ死んだがましという考えになる。つまり幸福論は、裏返えせば自殺の論理なのだから、まさに魔薬と同じである。痛み止めの注射を喜んでいる中に、いつかその薬で身体がボロボロになることを気づかず、また気づいても自分の力ではどうにもならない。
 今日の文明人とは、この幸福という魔薬に知らず知らず侵されているのである。本当の幸せとは、生きていることだけに感じられる純粋なものでなければならない。生きておれるから幸せなので、幸せだから生きておれるのではない。幸せをギリギリまでつきつめてゆくとそうなる。正しいこと、善いこととはそういうことである。生きている、いられることが真の自愛、自らを大切にする心であり、その故に、おのずから他をいとほしむ心となつてくる。こうして真の和合が生じるのである。
 浄福 第25号 1975年9月1日

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