田辺聖恵 の検索結果:

釈尊の聖句 152

…肉は増せども、彼の智は増すことなし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一一 老品 四〇頁) 少聞 聞くこと少きこの人は牛のごとく老ゆ。肉は太れど知恵は増すことなし。(田辺聖恵訳) ◎聞法のシンドサは、自分の時間がけづられると思うから。分り始めれば喜びに変る。分らせようとしない側にも問題がある。ゼイ肉のつきすぎとはまさに心のあり方を云う。法を知り、法を喜ぶ者はいつも若々しい。大自然は老いることがないように法の世界も老いることはない。聞法の世界こそ真のいのちだ。田辺聖恵

釈尊の聖句 146

…。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一一 老品 三九頁) 燃える つねに燃えつゝあるに、何の笑いぞ、何の喜びぞ。おんみらは闇におゝわれて何ゆえに、あかりを求めざるや。(田辺聖恵訳) ◎愚痴・欲・怒りこれらの激しい煩悩によって人々は、身も心も焼かれつゝある。それが幸福だと錯覚している。死は大地を打つより間違いない。目覚めよ人間の実体をよく視よ。己一個の問題がかたづかないで、どうして社会や世界のことが云々出来るのか。真理、真実のあかりを一目も早く求めねばならぬ。田辺聖恵

釈尊の聖句 144

…をあてられたる良馬のごとく、おんみらも信心にはげめよ。信仰と規律と努力と静思と真理の認識により、知恵と実行とをそなえ、失念することなくんば、おおいなる苦悩を捨てはなれん。(田辺聖恵訳) ◎信仰に入るとは単に何かを信ずるということではない。自己認識と目的、確実な手段と実行、指導者による評価、充足の自己認識−とシステムがある。学習が必要であり、それは最高度の教育である。不要なものを取除き、目的へ直進する。この良馬のようなひたすらなはげみが持続されねば本物には到底ならない。田辺聖恵

釈尊の聖句 126

…大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 九 悪品 三六頁) 地獄、天国と悟り あるものは人と生まれ、悪をなせるものは地獄におち、善行者は天国に行き、煩悩なきものは完全なるニバーナに入る。(田辺聖恵訳)◎折角人と生まれても、行いによってその報いを受ける。こゝに主体性がある。未来を恐れどうなりたいかとはっきりする所に、求道がある。人間として生まれてきた以上、完全な境地を目差すべきではないか。ためらったりいい加減にしている中に残り時間はたちまち無くなる。死後のぬけた仏教は本物でない。

釈尊の聖句 217

… 生活規範 規律と正しき考えをもち、法にしたがいて暮らし、真実を語り、おのれのなすべきことをなすものを、人々は愛し楽しむ。(田辺聖恵訳) ◎仏教徒の生活の規範がはっきりしないことが、日本仏教の低迷をもたらした原因、要反省。五つの規律、殺生・盗み・淫ら・うそ・酒のみ−を守り、守るが善いと信じ、他に善を施す−これが生活基本。そして仏教真埋を知・信・行し−その線にそった仕事を実践してゆく、こゝに基本とその喜びへの道がある。基本をくりかえして、人生習熟の道が開けると云えよう。田辺聖恵

釈尊の聖句 204

…、涅槃は最上の安楽なり。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 十五 安楽品 48頁) 真の道 無病は第一の利、満足は第一の富、信頼は第一の親族、ニバーナは第一の安らぎなり。(田辺聖恵訳) ◎無病息災、家庭円満を目ざしていけないことはない。いわばそのための家庭生活なのだから。ただしそこに人間の理想があるのではない。真実の生き方は真理を学習し、それを体験化するニバーナを目ざす所に現われる。信者の浄福追求とやがて信の徹底、真理の体得へと自己を高めてゆくのが真の仏教者。田辺聖恵

原始仏教講座 第一講 その十五

…れる方。無上士というのはこの上もない立派な方、調御丈夫とは馬を調教する訓練する調教師のように人間を訓練して下さる方。天人士とは天は神様、人は人間、神様と人間のお師匠様。日本では神と仏と同格のように言ったりしますが、仏教では違う。神様を指導する方が仏様です。そういう方をブッダというわけで、それは世尊である。最高の幸福に行き着いた方。それをムハガバートンという。それの意味をとって、世に最も尊とばれる方ということで世尊と訳されている訳です。それがこよなき世間の帰依所である。田辺聖恵

釈尊の聖句 120

…福善を見る。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 九 悪品 三五頁) 善が熟する時 善人もその善が熟さざるうちはわざわいをみる。されどその善が熟する時、かれは幸いをみる。(田辺聖恵訳) ◎善には二種。幸福としての善と覚り救われの絶対の善と。どちらも、それを未だ得ていない所から出発する。それは必らず得られるという確信による。この善を人生の目的としない人にとっては何の出発もない。従って到達結果もない。求めのない所には腐敗があるのみ。人生の目的を学習聞法して前進せよ。田辺聖恵

釈尊の聖句 114

…蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 八 千品 三四頁) 不死の道 死にあらざるさとりへの道を見ずして百年生くるよりは、死にあらざるさとりへの道を見つつ一日生くるがすぐれたり。(田辺聖恵訳) ◎不死の正覚、これが真仏教。肉体にふりまわされたり、不確実な未来を夢みたり、たゞ過去の因縁を解くための先祖供養などで終ったりするのではない。酔生夢死の百年は、正覚の一日にも及ばない。それは人間の本質に生きるか、快楽的表面だけで生きるかの違い。死ではない死なない絶対の道が釈尊仏教。 田辺聖恵

原始仏教講座 第一講 その十三

…がままです。ミカンが引力によって下に落ちるというのは、引力の働きですが、あるがままです。逆らうことは出来ない。人間は皆引力の範囲内で生きている。簡単に言うとそういうのが自然、自然のあるがまま。あるがままを漢文で如と訳したわけです。インドの言葉ではタターです、ガーターとは来るということ。本当はアガーターを略していっているわけです。真理から来た方。ということは真理を悟った方。真理を体得した方。これが如来です。真理から来た人間、真理から来た人間以上の何かということではない。田辺聖恵

釈尊の聖句 90

…人には苦悩なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 七 阿羅漢品 三十頁) 終りある旅 旅を終え、悲しみをはなれ、すべてに自由となり、一切の束縛を捨てたる人に悩みなし。 (田辺聖恵訳) ◎人間の旅が幸福の追求のみであればそれは体裁のいい迷いの連続。真実を求めるのが正信の旅。この旅は必らず終りがあるそれは絶対の境地だから。悲しみも喜びも超えた、自由無碍の境地は、簡単に得られるものではないが、この目的地は明快でなければならない。これを信じ体験化してゆくのが仏教。 田辺聖恵

原始仏教講座 第一講 その十二

…です。ですからブッダハと言ったならば悟った人なんです。私も人間あなたも人間、人間を超越した存在ではない。ブッダと言う発音で意味するものは、悟った人、人間以上の人ではないと言うことです。これが本来のブッダの意味です。所が日本式になると人間を超越した存在のように受け取れる。宇宙に満ち満ちた仏様。というような話になると、宇宙に満ち満ちたとなると、私という人間とは全然違います、そういう風に哲学化する。それはどうしてそうなるかという話をしますとややこしくなる。そこは抜きます。 田辺聖恵

釈尊の聖句 79

…の説ける法を楽しむ。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 六 賢品 二九頁) 法を喜ぶ 法を喜ぶ者は、清き心にて幸せに住むなり。賢き者はつねに聖者の説ける法を楽しむ。(田辺聖恵訳) ◎法がはつきり分るということは喜びである。この法はもう余分な生活の仕方を必要としないことを教える。生活が一本化、単純化してくる。清らかな心、清浄の生活となる。小さな悪に対しても敏感になり、おのずから自己規制が働く。法の世界が喜べるようになると、もつともつと聞法したくなるものである。 田辺聖恵

釈尊の聖句 60

…る愚者には流転長し。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 五 愚品 二六頁) 長く遠い道 眠らざる者に夜は長く、疲れたる者に五里の道は遠し。真理を知らざる愚かなる者に輪廻の苦は長し。(田辺聖恵訳) ◎真理を知らぬ者は、死後も苦しみの世界に落ちこむという、はっきりした苦の実感がないなら、仏教の有難さは分らない。死後の救われが先に説かされては上すべりとなり易い。苦の認識が深まる所に人間の収り柄がある。五里霧中の人生では苦すら分らない。仏教とはまず苦を習うことである。田辺聖恵

原始仏教講座 第一講 その十

…い。ではお釈迦様達はどうして暮らしていたか。野宿でしたから、物はいらない。受け取っていい物は何かと言うと、托鉢して一日一食ご飯を頂く。それから三衣一鉢といって、三枚の着物、これは坊さんとしての日常の服、着物です。儀式用の衣ではない。日本では儀式用と日常と使い分けている。葬式のときは金ピカの刺繍したような高価な、花嫁衣裳より高いような、金糸銀糸で刺繍してある。歌舞伎役者が着るようなもの。誰が負担するのか、皆檀家が負担する。お金いるんですね。だからこれは皆ルール違反です。田辺聖恵

釈尊の聖句  51

…も効果なし。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 四 華品 二五頁) 言行一致 かがやきてうるわしき花の色はあれど、香りなきがごとく、よく語れる言葉も、これを行わざる者には実を結ぶことなし。(田辺聖恵訳) ◎仏教を観念の世界に遊ぶものと誤解する人が多いが、釈尊仏教は、戒・定・慧の三学−生活の規律、真理の学習、心統一によるその体験と、むしろ実行面の方が大きい。以上は求道者であるが、在家信者も又、求道修行者を積極的に支援し、善行を積むので、信に停滞するのではない。 田辺聖恵

釈尊の聖句 204

…涅槃は最上の安楽なり。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 十五 安楽品 48頁) 真の道 無病は第一の利、満足は第一の富、信頼は第一の親族、ニバーナは第一の安らぎなり。(田辺聖恵訳) ◎無病息災、家庭円満を目ざしていけないことはない。いわばそのための家庭生活なのだから。ただしそこに人間の理想があるのではない。真実の生き方は真理を学習し、それを体験化するニバーナを目ざす所に現われる。信者の浄福追求とやがて信の徹底、真理の体得へと自己を高めてゆくのが真の仏教者。 田辺聖恵

釈尊の聖句 202

…部経典一 法句経 一五 安楽品 48頁) 四つの己 むさぼりに等しき火はなく、怒りに等しき邪悪はなく、肉体の如き苦しみはなく、静けさにまさる幸福はなし。(田辺聖恵訳) ◎今已がどこにいるか?はっきりした自己分析から真実の向上が始まる。已の認識がしにくいのは、たった一つ勇気が欠けているから。今自分は何にふりまわされているのか、己に残されている年数を本当に数えたことがあるのか。一体誰に何を言い訳するのか。天につばすることを今年は止めよう! 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

釈尊の聖句 201

…3巻 小部経典一 法句経 一五 安楽品 48頁) 勝 敗 勝ちたる者はうらみを生じ、負けたる者は苦しみてよこたわる。勝敗をすてたる者は心静まりて幸福によこたわる。(田辺聖恵訳) ◎欲望が斗争を生む。文明とはこの斗争の所産。真の精神文化は、欲望斗争の歴史の背面にしか伝統されない。歴史下への探策こそ真の大教育。平和への偏向も又欲望。勝敗によっては永久に平和は実現しない。平和のために斗うの愚を止めよ。こころ静に徹せよ。和合は直ちに現前する。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

原始仏教講座 第一講 その六

…ら。そしてお釈迦様の仏教とは何か、一口で言うと、「導くこと」である。「導」と気が付いた。これは私なりににですが、それで仏教とは何か要するに導くことである。何をといえば、教・行・証。この教・行・証が分かっただけでは駄目で、導かなければ駄目なんだという事に気がついた。だから人を導くことをしなければならない、それで昭和35年に導くことを始めた。これが私の10年間の学習の総まとめです。「仏教とはなにか、導くことである」。平たく言えばそうなる。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

釈尊の聖句 191

…の終りに導くもの(192)まことにこは安らかなる帰依所なり。こは最上の帰依所なり。この帰依所によりて一切の苦より解脱するなり。(田辺聖恵訳) ◎原因と解決法、この二つが揃っていなければ、誰でもがついてゆけるという宗教ではない。釈尊の仏教が最上と云われるのは、この最大の条件が揃っているからである。それが八聖道である。八聖道が「中道」であり「釈尊仏教」であり、和風に云えば「和敬道」である。真の仏教徒はこの八聖道に参じて落着をするのである。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

原始仏教講座 第一講 その五

…動物であると外国から言われる。日本は経済だけしかない。論理性がない。儲けなければ話にならないと。これは論理ではない。儲けてどうなるか、その先がない。日本国家に論理がないということが、貿易摩擦の根本原因なんです。これは日本の体質である。仏教の教え、それを体験する修道、修行の方法、それからそれを体得した状態という、教・行・証、これが仏教そのものである。それが分かる、あるいは途中である、そしてどうなるかというと、それを導かなければならない。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

釈尊の聖句 188

…経 一四 仏陀品 46頁) 帰依所 人々は恐怖にかられて、山に森に、林園の木やみたまやに、実にそれらあまたの帰依所にゆく。(田辺聖恵訳) ◎貧・病・争を最大の恐怖として何かにすがろうとする。またその三つを持たない人は、宗教などいらないと云う。そして「死苦」という最大の恐怖を忘れて暮らす。この解決なき宗教は本物ではない。仏教はまず、死の恐怖から掘り起こす。物的御利益でたぶらかすといったことは信仰の名にも価いしない。迷信−迷わせる信か。(田辺聖恵) ブログランキング まじめな話題

原始仏教講座 第一講 その四

…育でしょう。学習ではなくなってしまう。実に嘆かわしいい。明治以降の西洋に追いつけ追いつけの、日本人の日本国家の焦りから来た学問の仕方ということです。それが未だに続いている、明治が教育界に於いては未だに通用している。そういうようなことに対する批判が教・行・証、というお釈迦様の仏教の学習の仕方、仏教は仏教であると同時に学習なんです。「行」と「証」ですから。学習のあり方というものをお釈迦様はシステマチックに構成しておられる。指導しておられる。田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

釈尊の聖句 186

…尽するを喜ぶ。(南伝大蔵経 第23巻 小部経典一 法句経 一四 仏陀品 46頁) 金 貨 金貨を雨ふらすとも満足はなし。賢き者は、はげしき欲は楽昧少く、苦悩なりと知る。(田辺聖恵訳) ◎金貨は欲望の象徴。いかに金に淡白となり得るかが己の成長度。その実習はあらゆる機会に施を実践するということ。施のない仏教は偽似仏教。愛欲よりもっと根強い財欲これの転廻をと対処せねば、単なる増欲信仰。世間かどうかでなく、本師釈尊にどう従うかが真の仏教徒。(田辺聖恵) ブログランキング まじめな話題

原始仏教講座 第一講 その三

…付かない。車の運転練習する。そして身に付くと。実地に道路走ってみて、これでいいと、試験官が証明するわけだけども、自分でもこれなら乗れる、自分が体得した自己証明でもあるわけです。悟りというと、難しいことのように言葉上響きますが、自分ではっきり身に付けるということです。仏教の教えをある程度練習して、自分に身に付けて、ああそうだこうだという、それが悟り。証、証明の証。あかし、と言っている訳です。それが教・行・証。これは全ての事に通用します。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

釈尊の聖句 185

…しらず、そこなわず、規律を守り食の量を知り、辺ぴなるところに起き伏し、静思に努力なすは、これ諸仏の教えなり。 (田辺聖恵訳) ◎今日の問題点とはこの六つがすべて失われていることだ。互に批判しやがて絶対拒否。常に自分が正しいとし、道徳も法律も無視。食ときたら喰べかけで捨てる。ガン促進食(美食)だから生理が受けこなさない。都市に巣中して過労、動揺はてなく怒りにかられ静まる時なし。文明のなれのはてだ。日本の未来はこの一つの実行から開ける。(田辺聖恵) ブログランキング まじめな話題

原始仏教講座 第一講 その二

…れると、曖昧に信じるというものが、それはいけないという風になるわけでしょう。そうすると徹底して信じることが出来ない場合は、曖昧な信ではいけないとなると、徹底した信になれればいいですが、なれれば勿論いいが、なれない場合は駄目だということになる。だから非常に難しいことです。そういうのでなく、曖昧でもいい、入り口的な信、これが大事ということです。「縁」と「信」、これが信仰の浅い者というか、入り口にある者にとっての一つの段階要素ということです。田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

釈尊の聖句 160

…経 第23巻 小部経典一 法句経 一二 自己品 42頁) より所 まことおのれこそおのれのよりどころなり。他にいかなるより所あらんや。おのれを訓練してこそ得がたきより所を得るなり。(田辺聖恵訳) ◎真の仏教は生活と一枚。己を作ることより始まり、己を他に及ぼし、そして終ることがない。己の中に真のより所、仏けを見出す者のみが、はるかかなたに仏けいますと拝めるようになる。己を問いつめることなくたゞいたずらに外により所を求めても仏教ではない。 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題

原始仏教講座 第一講 その一

…次元が違いすぎて、ピンとこない、という所が多いのではないでしょうか。そういうようなところが、日本仏教の非常に高級な所であるが、日常性と噛み合わない。日常を離れた所が宗教の世界という風になって、一般の人は、話は真に結構、そうありたいなという気持ちと、毎日働かねばならない、稼がねばならないという日常の生活と、二重構造で仏教に触れて行くということが多かったろうと思います。それでもいいようなものですが、もう少し突っ込んで考えたいと思います。(田辺聖恵) ブログランキング まじめな話題