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釈尊の聖言 「修道者シャモン」

…日一食、もし得られなければその日は食わないという食欲からの解放。 一日の大半を樹下で静思し、雑念妄想からの脱却。夜分は枯葉を敷きものにしての野宿。こうして教えられた縁起真理との一体化、経験なきものが味わいようもない大歓喜に入ってゆく。 こうしたシャモンは釈尊の直弟子となり、教団者の一員となりサンガという和合衆を形成する。かくてサンガは三宝の一つなって世人の尊敬と供養を受ける。これが釈尊仏教の修道者の基本型である。それは何たる気高さ、礼拝をせざるを得ない真の宝である。 田辺聖恵

行動による変革の仏教

…性を持ち、よく分らぬままに救いを求めるといった事では間に合わなくなっていたからである。このようにカチット構築された方式でなければ真の正導救済が成り立たないからである。 その後釈尊は全くの無報酬で四十五年間、野宿の旅を続けながら正導して歩かれた。そうした仏像でない行動エネルギーは何所から出てきたのであろうか。それは動乱である。精神的動乱が精神的英雄を産み出す。さて今日、何人が動乱性を感じ取るであろうか。真の仏教はそうした鋭敏さの中からしか生じないのである。三宝171号 田辺聖恵

真の幸福を未だ知らず

…の法、真理を人々に正導し、法の施しをなされた。そこに最大の聖福があったからである。 「諸仏のあらわれたもうは楽しきかな。正しき法を聞くは 楽しきかな。サンガの和合なすは楽しきかな。和合せる 人々の修行は楽しきかな。」 (法句経) この様に自らの体験を語られる釈尊、ブッダと言われる理想者にまみえる事が出来る様になった事は、私どもにとって何という浄福であろうか。真のサンガはまだほど遠い。だが釈尊に少しでも近づける事を真に喜べる人こそ、三宝の仏教者と言えよう。三宝169号 田辺聖恵

尊敬と供養

…る。 釈尊は四十五年間の仏教活動を終えられるに当たり、 「法に従いて行うものこそ、如来を最上に尊敬し、供養する」と説かれる。行動なき観念論になって立ち消えしてしまつ、真仏教の行く末を二千五百年も前、案じておられたのだろうか。行動なき観念信仰から、自己を証明してゆく生き方の宗教へ、考えてみれば何と世界に類例のない一大変革ではないか。 この様な事実真実を内容とするが故に、弟子信者に対して、「尊敬と供養」をその一生を通し呼びかけられる。後は私の問題である。三宝 第168号 田辺聖恵

生き方仏教

…。 この短いお経(三宝法典 第二部 第七三項 リチャービー人への教え)の中に、信者大衆の在り方が説かれている。単なる心構えでなく、まさにより善き生活法である。死んでから先どうのといった事ではない。また信者には仏法を奉じ、ビクビク尼を敬い、清き信仰を持つ者を守れと教えてある。 宗教とは教えによる自己革新ではあるが、それはその様に生活せよという事で、タテ前と本音を分離させてそれが生活の知恵などと平気でいられる様なものでない事をよくよく考えたいものである。三宝 第166号 田辺聖恵

非情の正導

…り、その貴重な体験によって一大歓喜が得られる。釈尊はこの真髄を正導される。いつまでもついて廻る甘えを断たねば悟り体験は得られない。 「われを見る者は法を見る」 法を見ようとしない者は、私を見ることにはならない。この厳しさ、いわゆる拝み信心の甘さがある間は解脱体験にほど遠い。釈尊のこのギリギリの真髄正導によってバッカリは遂に解脱し、修道の目的を達した。再生の無い世界へと旅立ったのである。かれは自ら刀を取ってその肉体を破棄したのである。何というスゴサか。三宝 第165号 田辺聖恵

経集 89

… 戒を破り、ビクに交わるにあらあらしく、おごりたかぶり、信者の家を乱すもの、偽りあり、自ら制することなく、もみぬかの如きもの、法の如く遊行なすもビク中の第四、壊道者と呼ぶなり。(田辺聖恵訳) 戒を破ってはサンガ和合衆の一員とはなり難い。自らを守らねば間接に信者を混乱せしむることになる。もみぬかの如きとは真実なきものの意か。形のみ衣を着けて、右往左往すれば、やがては仏道を破壊し尽す。今日の精神的荒廃を救うもの、それは宗教者でなければならぬ。今曰待望されるのは真の宗教者。田辺聖恵

尊信のある民主主義

…ずることの無意味さを心得ておられるからだ。この雨行が退出した後、釈尊は周辺の弟子全員を呼び集められる。そして修道者、仏教者としての七つの衰えざるを法を、しかもいく通りもの系列として解説される。そこには信者と修道者をごっちゃにして混乱させる様な方式をとっては居られない。私はそこに真の指導者救導者というブッダの内容が如実に、まことに親切になされていると思うのである。まずは衰える事なく、真実に栄える事の意味合い、自らじっくり考えるべきではなかろうか。 (三宝 第163号) 田辺聖恵

活き活きとした信仰

…ねば使いようもない。この分かる事、使える事、これが釈尊仏教の特長である。不思議な世界とはまるで違う。 この王子と釈尊の問答対話でも、分かる事で進められている。よく分らないが何やら有難いという、宗教感覚は今はほとんど無くなっている。釈尊仏教がかつて何故活き活きとしていたのだろうか。 縁起という分かり易い真理、容易にその生き方に応用出来るという事、これが真の理由であろう。従って今日でも、これからの日本でも心ある人々を活性化させるものであるに違いない。 (三宝 162号) 田辺聖恵

経集 88

…の「道に生きる者」と呼ばれる。(毎田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) よく説かれたる法句の道に活き、自らを制し、正念あり、あやまりなき道のものをビク中の第三活道者と呼ぶなり。(田辺聖恵訳) 宗教者とは道に活きる者である。開祖釈尊によりて説かれた法句に従いその戒めを守り、心を覚りに向けて開いているならば、未だ完全な覚りを得ていなくても聖者である。まじめであることこそ、仏教者第一の条件であろう。弁解をせず、法句により忠実ならんとする時、自ら光明もさしてくるものである。田辺聖恵

真のリーダー

…か釈尊の真意に返えそうと立上った人々が登場するのに五百年がかかっている。真の釈尊仏教が回帰現象するには、それなりの年数が要るのであろう。 だが、どんな時代にも真の法水は流れついで止まないものである。その法水に触れる事は、少々の志向を持てば可能なのである。何と希望に満ちた時代、場所であろうか。真のリーダーとしての釈尊は、求める人にはその姿を全心身をもって現わして下さるのである。そこに新しい民衆主義が形成されるに違いない。まことに有難い事ではある。 (三宝 第161号) 田辺聖恵

四段階の静思

…ある。その具体方法の要点は「四禅」と云われる四段階的な静思である。第一段 粗大雑念 さ細雑念 心的喜 体的楽 心統一 第二段 体的楽 心統一 第三段 体的楽 心統一 第四段 考えるでもなく、考えないでもなく心統一 これは雑念の許容という実際性から入り、次第に心の喜び、体の安楽という段階を経て、真理を考えるでもなく考えないでもなく、深層意識で考え、その深層意識を転換、定着させることで、真理の体験、なり切りをする。この方式は自己点検しながら習熟する方式。三宝 第160号 田辺聖恵

経集 87

…(毎田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) この世において最勝の法を最勝の法と知り、ここに法を説き、分別なすもの、この疑いをたち、欲を滅せる智者をビク中の第二、説道者と呼ぶなり。(田辺聖恵訳) 何が真理の法であるか、いかにしてそれは体得できるか、人は何をしてはならないか、また何を進んですべきか。これを瞬別して実践し、かつ解説指導が出来るもの、これが、第二のシャモン、説道者。その体得において未完成でも、法のご縁を作って下さる正導師なるが故に、尊敬し供養し奉るべきである。田辺聖恵

在家者の修行

…」−何の為に生きるのか(目的)、何を根拠に生きるのか(根拠)、どの様に生きるのか(方法)この三つが明確でないならば、真の充実も喜びも得られない。生き方を学として学習せねばならない理由がそこにある。 「自分の生き方に徹する時、自ずから利他となる」 学とは了解、納得である。人生とは生きる事の意味を了解し、その意味価値を実現する為に生きる事である。仮に他から何ら自分が認められなくても、自分で自分の存在価値を自覚出来た時に、人は例外なく充実と喜びが得られる。三宝 第157号 田辺聖恵

経集 86

…田周一訳 釈尊にまのあたり 一周会刊) 疑いをこえ苦をはなれ、ニバーナを楽しみ、欲を除き、人天世界の導師たるかかる人を、道によりて邪悪に勝てるものを、勝道者と諸仏は呼び給うなり。(田辺聖恵訳) 四種のシャモン(仏教における出家求道者)の中、その第一が勝道者。自己の煩悩と斗って勝った者。身は清浄にして心は安楽、いずこに生れ変ることも欲せず、一切あるがままの肯定に生き、そのようにあるべしと人と天上なる神々を導いて止まぬ者。それは諸仏に近いが、善知識、正導師礼讃に価いする。田辺聖恵

解脱後の自殺

…念無想になる事でも、死後本位になる事でも、政治運動などでもない。真理に合致してどう生きるかという本番的な生き方論において、釈尊に面接するという事である。バッカリはその事をついに体得する。そして他に迷惑をかけないという積極的生き方をもって自殺という手段を選んだ。生きておれる私どもが、どれほど積極的に、真理的に生きているだろうか。いやおうなしに、生と死を考えさせてくれる、まさに貴重な体現的仏教の経典である。(三宝法典 第二部 第四七項 バッカリの捨身) 三宝 第157号 田辺聖恵

学習・体験・生活化・正導

…近づいているではないか、という事、この事実の前には心の豊かさなんて話はふっ飛んでしまう事である。 もしこの様な話をまともに聞いたら、まさに息苦しくなるに違いない。私たちは、もう読み物を通してしか釈尊を聞くことが出来ない。真の継承者を見る事は不可能に近いからだ。釈尊は言葉を尽くせ、と言われる。確かに仏教は口説にとどまるものでなく、体験すべきものである。だが、仏教の口説人口を増やさない限り、体験者の登場など望むべきもない、という事になりはしないだろうか。三宝 第155号 田辺聖恵

信者と弟子の差異

…てもその信仰が確立し、布施実行が充分に(多少ではない)になされる時、悟りに一歩手前のような歓喜が得られるとされている。後期の仏教になると、この様な段階性をとばし、本質が強調されるようになったので、理解了知してゆきにくくなったとも言える。釈尊は何故、この段階法を採用なされたのか。それは仏教信者が一人も居ない所から、一人々々を納得させてその道を選択し得るようになさった、その当時の実際性から来ているのではなかろうか。旧日本人には向かなかったかも知れないが。三宝 第154号 田辺聖恵

仏教は対話

…いて差別観を教えられてゆく。仏教によって平等意識は努力目標となるが、次第に努力を要しない自らのものになる。人間関係において対話は初め努力的である。上下性を脱する為に。だが熟成につれて差別感が取れ平等感になってゆく。 釈尊は「法談と聖黙」を掲げておられる。法談とは、対等性に立って真理法の対話をするという事である。その他は聖黙、おしゃべりなどはしないと云う。共に法談を喜べるところでは、共にがあるのみで、平等、対等といったものすら青くさいものとなるだろう。三宝 第153号 田辺聖恵

体得と信

…て、心が安定し、浄福をもって生きる事が出来る。釈尊はこれらの人々にはその様な信者の在り方を信者には説かれ、決して直ちに求めもしない覚りの話などをやたらにはなさらなかったのである。こうして宗教者と信者との二層構造を明らかにする事によって美わしい仏教活動が展開されていた。これが仏教のオリジナルである。祭式葬式専門屋などではなかった。生きている人間の真の人間教育を実践していったのである。平易さをぬいた真髄などはない。原始仏教によってそれらの事が教えられる。三宝 第151号 田辺聖恵

行動の自由と責任

…る信仰を守るのがよかろうとされた。異なる教えに属していて、純粋な覚りに入るのは難しいとされた。それは覚りとは矛盾排除の自己統一だからである。誰でも覚れる救われるなどと安易な話にしておられない所が、肝腎な要め所である。ここに生きた宗教、体験と行動の宗教の本質が現われている。 信者としては、これを支持し、あこがれ、聞法行動をし、その信を深めてゆくことが期待されている。そこに真の利益と浄福が恵まれてくる。信者の道も決して安易な甘えのものではないとすべきだ。三宝 第150号 田辺聖恵

出家清浄

…ぎしてそれを求め続けてきた。二千五百年前、釈尊はまさにゴールインした。真理を一切は縁起性のものであると悟られた。そこからその覚りの実践実現者として四十五年の宗教活動を生きられた。まさに理想が人間において実現したのである。 身辺の清浄は学習者の基本である。真の目的は真理法の体得実現である。身辺清浄は一つの功徳でもある。私自身もこの十数年、独居による恩恵を得てきた。まことに有難い事である。宗教者という実感がしないでもないこの頃である。多謝、深謝の外ない。三宝 第149号 田辺聖恵

仏教は初中後一貫して施業

…実行して生きた。それは釈尊らが導かれる真理法が確かなものであると信じ、出来る限りの施を実行したのである。信者とは施者と云ってもよい。施すものがある事が真の豊かさである。握りしめは惜しみ心の苦しみをかかえ込む事である。 宗教者は財物を蓄えずして法を施し、信者は尊敬をもって財を施す、ここに相互互恵、縁起相関理法の実現がある。悟るとは分かって実行する事で、観念に逃避する事ではない。施業は直ちにも出来るが、一生出来難い事でもある。仏教は実行体験の宗教である。三宝 第148号 田辺聖恵

直信者の在り方

…浄施を事あるごとに行うことによって仏教による生活者になってゆく。施の足らざるを恥じるようにすらなる。そしてやがては慧(覚り)と云う最高の境地にあと一歩という所にまで行けるようになる。何とも有難いことである。信者としての道は広々と開けている。それをどこまで自発的に歩み出すかだ。 これらの生活者としての実践をぬきにして成仏するかしないか、云々しているのは全く観念の遊びであって宗教ではない。仏教とはまさに自分が納得出来る善き生き方をすると云う事なのだから。三宝 第139号 田辺聖恵

親と子の道

…の未熟さである。自分の努力だけでうまくゆかない事が多いのは、この様な生命継承の実際を活用しないからとも云えよう。 仏教では霊(不変の本体)とせず霊位(その様なもの、変化するから)とする。話が面倒になるので一応先祖霊とした。 以上は道徳法で、宗教や信仰によってより幸福になる、幸福以上になる事も可能で、それは右の道徳法を上廻ると考えられるから、先祖供養をせねばならないと云う事もない。これをご参考にして、自主判断をされ、自己を全うされる事を望んで止まない。三宝 第146号 田辺聖恵

人間究極の解明

…よる苦悩解決は誰にでも開かれている門ではあるが、その門に入る者は少い。梅雨時になってこのタイプ室が雨漏りするが、心の漏り(煩悩)をどうするかと、思わざるを得ない。 「浄福と至福」 わが家の漏る所もなくて幸せ 妻子も柔順なるが故に幸せと 旅の仏教者釈尊にダニヤは言う 家に漏る所があろうとも 心に漏る所が無いのが真の幸せと 牛飼いの在家者に釈尊は告げたもう 一応の幸せと真の幸せに対して どの様に対応するかが人類の歴史だ 正導者と信者との互恵世界への歴史だ三宝 第145号 田辺聖恵

仏教は人間主義にあらず

…しかもこれなくして一人として一分たりとも生きられないのに、これを尊崇する事が出来ないのは何故か。全然この平易な、「縁起」の真理が日本では説かれていないのである。あまりにも難解な「空論」によって固められてしまったからである。釈尊はこの平易な縁起法を説かれたから、無数の人が悟る事が出来、無数の信者が、ブッダとサンガと共に「三宝」として尊信出来たのである。まさに個人原理が普遍原理にもなった。世界が悟り救われる可能性がここにあると、この上なく喜べるのである。三宝 第144号 田辺聖恵

入滅の意味

…思う。 そのことを声を大にして啓蒙運動を更に増大せねばならない。その真理から導き出される生活方法は少欲知足である。便利生活に走り易いのを、一日一食の質素な歩みをされた釈尊を恋慕することによって、少しでもあやかってゆこうとするところに仏教者の生活がある。世界がもし少欲知足を少しでも取り入れたなら、たちまち平和が本物になるのであるが、この原理はまさに足許からである。入滅の日に考えねばならぬことは、それこそ山ほどあると云わねばならない。浄福 第77号 1980年2月1日刊 田辺聖恵

仏教者の病いへの対処

…、その弟子から、自らが正導された覚りの枝を聞かれる。すでに説かれた真理法はその発案者から離れ、真理実現のための活動、働きをするようになる。釈尊はその法を聞かれ、思念し、喜び、病いを直された。たとえどの様な病気であろうと、あわてふためいて医薬にとりすがるといった事でなく、心の在り方の真理法に向ける事を優先されたのである。人間の病いに対する仏教者の在り方を厳然と教えさとされていると、受け取るべきではなかろうか。宗教と医療の分離の功罪を考える時に来ている。三宝 第136号 田辺聖恵

心の悪魔との対決

…なく、誰でも理解し納得できるものである。 それによって沢山の弟子たちがニバーナと云われる悟りを体得する事が出来た。そしてその直弟子たちは、その能力に応じて、それそれが、弟子や信者を正導する旅に出たのである。ここに単なる観念論でない、体験と実行の宗教の本質が行われたのである。 十二月八日は釈尊が悟られた仏教者にとって、最大の記念すべき日である。それは釈尊が正導を始められる開始点でもある。仏教者のあるべき、行うべき最大お手本の日とでも云うべきであろうか。三宝 第134号 田辺聖恵