人間究極の解明

  「人間究極の解明」 
 人間は永遠の存在で、死なども無いとすれば、大した苦悩を感じる事はないであろう。所が現実に例外なく人は死ぬし、さらに厄介な事に何時死ぬかハッキリしないという事で、人間は生きなければならないのである。そうしたいわば条件付きの生にどの様な意味があるのであろうか。こうした疑問を持つ様になるのは大体何歳位であろうか。私事で恐縮であるが私は、中二位の時、宇宙創成の本を読み大いに悲観したものである。やがて何時かはこの地球も他の天体と衝突し、破壊する事もあろうとあったからだ。であれば当然人類も破滅する。では先で破滅するなら生きていても仕様が無いではないか。だから太平洋にボートで行って人知れず死のうと思ったのである。笑話の様ではあるが一人っ子でしかも親と別居して暮らすといった環境が影響していたのかも知れない。
 あるいは青年前期の「死にたい願望」が現われていたのかも知れない。これは確かに論理の飛躍だし、時間の論理が欠けているが、もともと論理というものには、時間の観念を抜く事が多い。それをハッキリ教えられたのは釈尊仏教の縁起説によってである。
 釈尊は産みの親マーヤー夫人の死という所から出発しておられる。どの様な信仰や学問を習っても、人は何故死ぬのかという事に答えてくれるものが無い。死をすりぬけた魂の輪廻説では、心底の納得にはならない。死の意味が分からねば生の意味も、分からない事の上に構築する砂上楼閣になる。意味が分らずに生きる事は最大の苦しみである。こうして釈尊は「一切皆苦」とせざるを得なかった。
 しかしこの苦観に徹した時に解答への道が開け始めたのである。その苦は何によって生ずるのかと、時間を逆に追求されたからだ。
 心の漏りにどう対処するか
 一切の苦は生きているからである。では何故生まれてきたのか。愛着し取捨するからである。それは感覚器官があるからだ。その肉体や心をつくるのも意識であるが、その根本は無明、愚かさ(現代的に云えば生衝動のみで判断未熟)からであると。これは時間を逆行した事実認識であるが、これを一度、純粋理論、すじ道論とすれば時間は不要となり、真理となる。

 こうした論理関係を釈尊は、順に逆に、何度も検討された。これを公式化すると「これ(原因)があるとかれ(結果)が生じる。結果を無くしたければ原因(縁も含めて)を無くせばよい」という、まことに明快なものにされたのである。いわば算術簡単理にされた。

 この論理は小学生でも分かる。だが自我欲が強ければ、この苦悩解決法を実行しようとはしない。苦悩が深かければ深いほどこうした根本療法でなければ直らないのだが、一般は欲望追求(これが苦悩の原因)と苦悩解決両方を同時に求めるから、論理に合わず、は
てしなく幻想をくり返えす事になる。仏教が難しいと云われるのはこうした論理無視をするからである。

 今日の様に理性は発達してきているが、この釈尊仏教の苦悩解決法がなかなか求められないのは、物的欲望も増大しているから、二者択一を必要とする真の仏教は敬遠されるのであろう。この様な真理は勿論、誰でもが求めるものではない。そこで釈尊は、一般の在家信者にはこの様な真理を説くのではなく、もっと平たい家庭的な浄福を説かれた。これは後期仏教には無い事なので、日本ではほとんど知る人が無い。そのため、種々なご利益信仰が次々と編み出され、やがて仏像信仰という、およそ真理とかけ離れたものになっているのである。真理による苦悩解決は誰にでも開かれている門ではあるが、その門に入る者は少い。梅雨時になってこのタイプ室が雨漏りするが、心の漏り(煩悩)をどうするかと、思わざるを得ない。

      「浄福と至福」
   わが家の漏る所もなくて幸せ
   妻子も柔順なるが故に幸せと
   旅の仏教者釈尊にダニヤは言う
    家に漏る所があろうとも
    心に漏る所が無いのが真の幸せと
    牛飼いの在家者に釈尊は告げたもう
   一応の幸せと真の幸せに対して
   どの様に対応するかが人類の歴史だ
   正導者と信者との互恵世界への歴史だ

三宝 第145号  田辺聖恵