親と子の道

 「母父は五つの事をもって子より奉仕せらる。『よく育てられしわれは両親を養うべし。両親のために仕事をなすべし。家督を相続すべし。財の相続を正しくすべし。またもろもろの死者の霊位に対し、時に応じたる供養をなすべし。』と。 
 父母は五つの事をもって子を愛するなり。子の悪をなすをとどめ、善きことをなさしめ、技能を訓練せしめ、子のためよき配偶を求め、よろしき時に相続せしむ。かくて東方は守られ、安らかにして恐れなし。」(三宝聖典第一部七一項 六方礼拝)

 「親と子の道」                        
 この一文は孔子さんの「論語」の一部であると云われたら、多くの方がそうと思われるのではなかろうか。これは釈尊がじきじきに説かれたお経の一部である。「六方礼経」として、現在南方仏教圏では大事にされている、いわば在家信者の生き方の指針となっているものである。現在でも南方では親や老人が大切にされている様子はテレビで時々知らされる。それは論語の影響ではなく、まさに釈尊仏教のお教えの影響と云わねばならない。
 敗戦という大動乱ではあれ、たった一度の経験で、今までの善き教えを全部ひっくり返えし、子供への親の教育力を失った結果、母親をなぐるという子供が現われ、世界に類のない親子現象が起きているのは、一体どこに真の原因があるのであろうか。
 何百年という長い間、日本の為政者は儒教をもって国民(実は家来)の生活道徳を指導してきた。それが何故もこうモロク壊れてしまったのか。何度も敗けている外国で国民道徳が急変しないのに。
 この辺については臨教審もまるで考えようとしないようで、受験制度から大して視野を広げられない所を見ると、アア道遠しである。
 ここでこの問題に深入りはしないが、道徳の根源に人間を超えるものを持たない限り、時代や環境の変化に振り廻わされ、とても道徳と云える様なものを日本人は持ち得ないであろう。道徳とは個人的にも社会的にも幸福になる様な善き習慣行動であり、伝統性を持つものである。変化適応ばかりだったら子孫に伝達教化しようがない。今の若い親が自分の子のしつけを放棄しているのは、すでにその親に伝承らしきものが無いからである。
 伝承は初めに意味があったはずである。所が何事もまずこの意味が脱落し、形だけとなり、やがて形への反発が、意味の消失にはくしゃを掛け、新しい伝統を作るまでに何十年ものマサツ期間を持たねばならなくなる。その間が混乱と不幸の連続だから大変だ。

         「先祖供養」
     善きにつけ悪しきにつけ先祖を供養し
     先祖との生命のつながりを明確にする事で
     その人その家族は活き活きとなり好転する
      先祖供養は宗教以前の親子の道徳だが
      宗教が薄れた日本では大いに必要だ
      そこから真の宗教への心も芽生えてくる
     先祖供養は善悪幸不幸の段階ではあるが
     これをぬきにして在家の幸せは得がたい
     ましてや宗教への徹底などは望みがたい
 
 何十万年か前の人類の墓が発見され、その死体の囲りには花粉が一杯にあったので、花を献じていた事が分った。それほどとむらうと云う事は古くから行われていたのは、何故という事なしにそうせざるを得ない人間としての心情からのものに違いない。そしてそれは死というものを考えさせ、時には恐れさせ、次第に宗教を考える一つの大きな要素となっていったことと思われる。道徳というものが人間としての自然の情を主とするものであるとすれば、それは余程起源の古いものに違いない。猿の世界でも様々なルールがあり、さらに逆のぼって様々な動物にも様々なルールがある事を私共は知る事が出来るからである。
 お盆における民族の大移動もこの様な起源を考え合わせればなるほどなと合点がゆく。さてこの様な移動が見られるのも、都市生活者が多くなり、先祖祭りの仕方も伝承されず、世帯主にはなったもののどうしてよいか分からないと云う方の増加による。墓参りはするが、仏壇が無いのでかねてはどうも落ちつかないという次第。
 そこで問合せを受ける事が多いので、ごく基本的な事をご参考に供したいと思う。初めにお断わりしておく事は、先祖祭りは道徳の方に近いもので、宗教としての仏教の方には遠いとする事である。霊的なものがからむから、それは宗教だとする考えがむしろ一般的かも知れない。だが霊を主としない釈尊仏教はでは宗教ではないのかと云った宗教論をせねばならなくなるので、ここでは先祖祭り(先祖供養)をする者の仕方と、その意味や効果に限定するという事で、むしろ道徳、親子の道とするわけである。
 日本仏教の宗派次第ではお寺さんが先祖供養やその霊への祈祷を主としているかに見受けられる所があるが、それは例外とすべきだ。
 恐山で死霊を呼び寄せたり、霊媒者に霊の乗り移りをさせたりするが、そうした事は、生きている人間が究極を目指してより善き生き方、徹底をはかる本来の仏教とは本質的な違いがある。
 日本で仏教が混乱的になってきたのは、純粋徹底のみを説く後期経典のみを採用し、宗教と道徳両面にわたって生き方正導をなされた釈尊仏教が不明だったからに違いない。つまり一般信者というものは、徹底の道(世俗を超越する道)を説かれても、生活環境上、様々な道徳を持ちこまざるを得ないのである。
 かって浄土真宗の傭われ僧から聞いた事がある。「真宗は月忌供養や盆供養はしないものだが(つまり純粋仏教)門徒が承知しないので」と。純粋仏教と信者の要望が喰い違ったまま、そこを明確にしてゆかねば、このまじめ僧が自嘲的になるのも当然であろう。
 上記の六方礼経は仏教の純粋さを基調にしての道徳を、釈尊が示されたものである。これからの仏教信者は、純粋仏教(真理中心)を求め、尊敬しながらも、家庭人としての道徳(浄福)を実践してゆく、という風に整理された生き方が望まれる様になるであろう。
  先祖供養の実際
 仏壇は本来、信仰の対象としての仏け様、あるいは三宝を祭る場の事で、先祖は別に祭ったものであるが、先祖も仏け様の弟子になったという意味合いで一緒に祭るのも良いであろう。位牌は先祖の霊的なものの象徴であるが、仏け様(ご本尊)より一段下に置く。大きな位牌で仏け様がかくれてしまっている所が多いが、これでは信仰心は見えない。又葬式の時の白木位牌(仮りのもの)をそのままにしてあるが、一周忌以内に黒塗りに替える。浄土真宗は系図様にし位牌を立てないのが正式。
 位牌も先祖代々(先祖各霊位)のを立てて、自分と先祖との生命的つながりが明確になる。これが無いと自分は何処から産まれてきたのかがハッキリせず、いわば生命力が弱くなる。
 仏壇と神棚は向い合わせに祭るなとされてきたが、信仰対象とすれば向きを変える位の配慮が常識であろう。
 亡くなられて五十年以上の方は先祖各霊位の中にくり込み、月々の供養から外す。さて供養の仕方であるが、親子の道として、挨拶や飲食物を上げるのが基本。テレビなどでも先祖に色々話しかけるが、ご本尊様には話しかけると云った場面はない。親子の道や心情として話しかけも結構であるが、これは信仰ではないと知るべきだ。
 お経を何を上げたら良いかと問う人があるが、属している宗派のお経を読み上げるのが良いが、たいがいは漢文なので、自分が分からず、従って先祖霊も分からず、こちらの誠意が伝わる位のものである。なるべくなら口語のお経を読み、分らせて上げる事が、お経を読む本来の趣旨である。先祖霊がたたっているからお経の力で追払うというやり方をする専門職があるが、これも一種の心理療法と云えよう。病気がこれで直る事もあるが、しばらくするとその霊が後もどりしてきて、又やり直しと云う次第。これは先祖供養と云うよりも病因を一つに定め、これを排除したから良くなるという心理療法と見るべきで、日本に精神分析が流行しないのは、この旧式の方が安くつくからと一時効果があるからであろう。
 先祖供養は追善供養とも云われる様に、何か善い事をして(施し)その功徳(善い事又はその結果の善い報い)を先祖に振り向け、先祖の安定に役立てる事である。従って直接ご本尊の力が加わるという事ではない。ここが道徳たるゆえんである。これを分けると、サンゲ供養(先祖が行った悪をお詫びし、つぐないを行う)と善施供養(先祖の善に感謝し、善の種まきをして先祖に振り向ける)とする事が出来る。これらは、先祖を自分の過去と考えれば(生命継承)自然に出来る事であろう。死後霊がどこに居るかは不明でも、遺伝子的に継承している分を先祖と考えれば、その先祖の影響を受けていない事はない。そこで過去を安定させ善にしてゆけば、そのつながりのある自分が安定し、善になってゆくのは、原因結果の法則通りの必然である。自分を自分だけに限定する事は生命的理解の未熟さである。自分の努力だけでうまくゆかない事が多いのは、この様な生命継承の実際を活用しないからとも云えよう。
 仏教では霊(不変の本体)とせず霊位(その様なもの、変化するから)とする。話が面倒になるので一応先祖霊とした。
 以上は道徳法で、宗教や信仰によってより幸福になる、幸福以上になる事も可能で、それは右の道徳法を上廻ると考えられるから、先祖供養をせねばならないと云う事もない。これをご参考にして、自主判断をされ、自己を全うされる事を望んで止まない。

三宝 第146号 田辺聖恵