真の幸福を未だ知らず

 「真の幸福を未だ知らず」
 シヤ力族の王マハーナーマは釈尊の父が亡くなられた後、王となった釈尊の親族と思われるが、その様な関わりをぬきにして、一信者としてこの王は、釈尊やそのお弟子を供養し、法を聞く。この王はまず「世尊」と呼びかけ、その尊敬を現す。世尊とはブハガバート(至福者−世間で最も尊ばれる方)であって、人間を超越した霊的存在などではない事を意味する。肉体をもって現実に自分を正導して下さる釈尊に対して、最高の信頼(帰依)と感謝の心を持ったのが、当時のあまたの信者達であったに違いない。
 まずは尊敬のご挨拶をしてから王は、自分の感想質問を申し上げる。ここに学ぶ者、正導を受ける者の基本姿勢、順序がある。かりに師から難しい事を説法されても、自分が一番気にしている事と結び着かなかったら、聞いても上の空になってしまう。少しましな親ならいきなり子供を叱ったりはしないと同じだ。当方に来られる方に私は、「今何に関心がありますか」とまず問う様にしているのだが私の関心が主であってはならないからだ。 教育という言葉には教え育てるという響きないし実質がある。親の言う通りしていれば間違いはないというのであれば親が主役。今のスポーツは何やら監督同士が主役に感じられる。
 釈尊は本人の関心事にずばり答えられる。本人が求めもしない、哲学の話などしてもしょうがないからだ。ここに『生涯学習』の本すじがあると言えよう。学校教育で高校一年になると十一万人かの中途退学者が出るそうである。私白身も戦前ではあるが、中学四年で中退した事があるので、学校教育は生涯学習と平行して行なわれるべきだと考える。そう言えば中三頃、「大法輪」という仏教雑誌を読み始め、沢木興道師の坐禅写真集を取り寄せて自分なりに坐禅のマネなどをしていた事を思い出す。
 質問する王は、仏教の教説を知識として知っても、体験を伴わないから、煩悩が解決され、捨て去られる喜びが分からない。だが教説の知識的認識が無いことには、疑問も関心も生じるわけがない。
 現在の日本人の大半が、仏教に対して無関心だというのは、お経の中味を読んだ事がなく、説教も聞いたことが無いのだから当然至極である。たまたま聞きに言ったり解説書を読むと、すべてが漢文の解釈に終始するから、何だかよく分らなかったという半端感しか残らない。どうしてこうなるのか。二対一の対話的指導がなされていないからである。仏教者は日本語で仏教を語る習慣を持たない。テレビであっても一々漢語を画面に出すという面倒さだ。
 仏教の基本知識とは、むさぼりと怒りと愚痴(無知)の煩悩、苦悩を解決する事である。何もお不動さんやお観音さんに変身する様な超自然的な事ではない。だが基本知識だけで苦悩が解決するものでもない。そこに信者の限界がある。だが限界的ではあるが信者なりの幸福感も得られるのも事実である。
 多少でも修道すれば確実に解脱出来る事は、沢山のお弟子たちが証明している。その事実を見れば、自分にも解脱する可能性がある事を信じられる。これは大いなる希望に違いない。原理と体験証明を伴った釈尊にお会い出来ることの幸せは、世俗生活のどの様な満足とも較べようのない、まさに貴重な幸福であると言えよう。
  「法の施しは切の施しにまさる。法の味は一切の味に
   まさる。法の楽しみは一切の楽しみにまさる。愛欲の
   たち切りは一切の苦しみにまさる。」 (法句経)
 外国旅行の経験などまるで無い私は、テレビで外国風景を見ても通一辺にしか感じない。経験による喜びがないからだ。法の喜び楽しさも経験しない人にとっては実感のしようもないであろう。
 釈尊もまた法を悟ることによって聖なる幸福にゆきつかれるまでは、やはりむさぼりの欲にとらえられる事があったと体験を語られる。私どもは体得者というお手本が無いことには、喜び勇んでその道を追求する気にはなれない。そこに私ども凡なる者の限界がある。
 釈尊は師匠を持たずして一人で悟られたとなっている。だがその修道中に精神統一の指導者二人について習っておられる。従って師を持たずしてというよりも、師を越えたと考えるべきかも知れない。
 現代でもインド人は宗教的民族と言われるが、釈尊の当時、多くの修道者が、正統非正統それぞれ独白の道を歩んでいた事が伝えられている。という事は宗教的すそ野が広い事で、それだからこそ、その中から最も優れた釈尊という理想者が出現し得たのであろう。
 日本の現代の若者がほとんどお金にしか関心を示さないというすそ野では、本物仏教は大海の中の一滴の油みたいなものかも知れない。火をぼんぼん燃え上らせ、人々の願望をかなえてやるという祈祷する信仰が枯れ野に火が燃えついて広がるような現象も、日本的拝金現象というべきかも知れない。
 釈尊は「むさぼりの欲」が実は苦しみの原因だと、明快に説かれる。ここで日本仏教は欲とむさぼりの区別をしていないミスを犯している。釈尊は質素な日常生活などを問題にしてはおられない。はてしなく広がってゆく欲をむさぼりとし、それを結局は苦悩の原因になると突き止められたのである。何人もの奥さんを抱えていて平静でいられるかと実に具体的に提示される。
 ではそのむさぼりはどうして起きてくるのか。それは人間とは何か、人間は何を価値として目指すべきかを知らないという、いわば根元的無知がその真の原因だと説かれる。人間を含めて一切は総てが相関し合って影響を受け又与え、変化してゆく存在である、専門語で言えば「縁起する」存在だという事だ。この事は世界のどこにでも当てはまる真理である。従ってこの真理に合う線で生きれば、苦悩の大半は解決してしまうという事を人間の在るべき姿だとするのが釈尊の仏教、「三宝仏教」である。この事の国家的証明を今、ヨーロッパで誰しもが目撃している。力による制圧が苦悩を深め、沢山の人を死に至らせている事を思うと、真理は厳然であると言わざるを得ない。人類四百万年の歴史を通観してみると、いかに総てが「縁起相関・互恵協業」の真理に目覚め、実行してゆく過程にあるかという事が分かる。二千五百年前、釈尊は人類の真理による理想を体得された。そして四十五年間、その法、真理を人々に正導し、法の施しをなされた。そこに最大の聖福があったからである。
  「諸仏のあらわれたもうは楽しきかな。正しき法を聞くは
   楽しきかな。サンガの和合なすは楽しきかな。和合せる
   人々の修行は楽しきかな。」 (法句経)
 この様に自らの体験を語られる釈尊、ブッダと言われる理想者にまみえる事が出来る様になった事は、私どもにとって何という浄福であろうか。真のサンガはまだほど遠い。だが釈尊に少しでも近づける事を真に喜べる人こそ、三宝の仏教者と言えよう。

三宝169号  田辺聖恵