仏教は対話

「仏教は対話」
原始経典(アーガマ経)を学んで特に気がつくことは、そのほとんどが対話だということだ。釈尊は弟子と対話し、信者と対話することで、正導をなされた。これは宗教、教育に限らず、人間関係の基本であり、かつ又究極と云ってよいのかも知れない。
 これが日本式になると、師は語り、弟子は黙って聞くものとなっているのではなかろうか。学校教育が教科書中心に教えられるように、仏教も漢文経典を主にするとなると、その解説が主となるから、対話式にしていたら先には進めない。何しろ漢訳専門語を一一日本語に置き替える事をやらねばならないから大変だ。
 それではというわけでもあるまいが、一方では経典理解をすっとばすか、お祖師様の法語集で進めるとなる。いずれにしても対話法はあまり行われない。一方では読書仏教が盛んになる。
 封建制度による上下関係が社会の主流というのが長く続けば、対話方式が発達しないのは、むしろ当然である。
 釈尊と時代が変らないギリシヤでは、ソクラテスが対話による教育をやっていた。対話の語源、ダイアローグについて知るのは面白い。「ソクラテスの創造とされる問答法(ディアロゴス)は、ディア (分ける)ロゴス(言論)、つまり言論をこまかく区切り、一方通行でしかない演説とは異なり、ごまかしを許さない仕方での対話。」と「和の構造」向坂 寛著・北樹出版ーある。さらに引用させて頂くと「ここまではどうだ分かったか、と質問し、相手の同意(ホモ・ロゴス)を引き出さない限り、先へ進まぬ方法である。これは、あくまでみなに分かり、みなの意識の前に明白に事の本質をさらけ出してみる努力。」言論を分ける事と、もの事を分析する事は別の事のようでもあるが、同じ事にもなる。
 対話という事自体も一方と他方とあい対しているから一応別、お互いを分けている。同じという意識が先にあれば対話は生じない。
「話さなくってもその位の事は分かりそうなものだ。」と言ったり、思ったりする事自体が相手を分かっていない。その様な弁解で、自分が説明する面倒さから逃げようとしてる自分自身の手抜きを分かっていない。米国、西独の父親に較べ、日本の父親はその半分の時間もわが干と対話していないそうである。忙がしくてという理由らしいが、実は対話習慣を持たない、その楽しさや必要性を知らないというのが、事の真相ではなかろうか。この無言法が遺伝?する。
 釈尊は、対話の初めに、相手の考えやもの事をまず確かめ、それから対話される事が経典でよく分かる。己と他者との相違点をまず明らかにする。もし一致点だけなら対話の必要もないという事になる。何故相違点があるのか。そこが問題だ。
 ものやもの事の本質真相はいくつもある訳がない。それらの現われ方、表相が違ってきているのである。この経典にある様に、一方は怒り、釈尊は怒らないのは表面の違いである。人間としての本質が違うというのではない。怒りが人間の本質であれば、釈尊も人間であるから、その怒りをなくしてしまわれる事は出来ないはず。
 釈尊は対話を進めながら、怒りが本能的、絶対的ではないものである事を示してゆかれる。怒りまで交換し合う必要がないとは、又何と分かり易く、しかもなし難いものであるかと気づかされる。
釈尊の話されようは、講演でもないし、講義でもない。講話と云ってもまだ一方的であるから「問答対話」とても云うべきものかも知れない。対話というものはあまり上下意識が強い所では成り立たない。下の方に遠慮意識がなければ上下ではないからだ。対話であるためにはある程度、対等意識がなければとても話とはならない。
 後に作られた経典は、絶対者としての仏やボサツが告げるという形式のものがほとんどであるが、それはいわば講義調のものとみるべきであろう。書かれたお経となれば、趣旨説明を目的とするからである。ところが、原始経典はそのほとんどが対話でなされている。
 それは書かれたものでない事を示している。今までの仏教解説書にこの対話性に触れたものが無いというのが、その著者が学問家で対話者でないことから来ているのではなかろうか。という事は、実は対話のもどかしさからそうなるという事に違いない。
時々ノイローゼ青年が来談するが、ここでは対話とならない。彼は自分の現状を毎回同じように説明するが、当方の話を聞こうとはしない。だから一方的に聞くだけで、とても対話にはならない。
 釈尊における対話が、ある程度の対等性においてなされたのは何故であろうか。もし神に伺い、その啓示を伝える式のものであれば、対等性は生じないであろう。釈尊は法、真理を悟られ、これを伝達する事、人々を啓発する事をその生涯の仕事となされた。
 法は正法(ダンマ)とも呼ばれ、誰でもが悟れるもので、その悟りにおいては平等とされた。また誰でもが悟れるという可能性においては平等とされた。男女差すら立てられなかった。長いこと女人禁制などと差別意識から脱し切れなかった後期仏教と較べると、大変な違いをそこに見出さざるを得ない。
 悟る事を(救われ)目的とし、誰でもその可能性を持っている事は、人間の本質において平等を確立するという事で、今日の様に、人権としての平等云々をするのとは大いに違う。この様に悟りにおける人間平等を土台とした仏教が、上下意識よりも対等意識の方が強いのはむしろ当然である。
 人間は成長過程において差別観を教えられてゆく。仏教によって平等意識は努力目標となるが、次第に努力を要しない自らのものになる。人間関係において対話は初め努力的である。上下性を脱する為に。だが熟成につれて差別感が取れ平等感になってゆく。
 釈尊は「法談と聖黙」を掲げておられる。法談とは、対等性に立って真理法の対話をするという事である。その他は聖黙、おしゃべりなどはしないと云う。共に法談を喜べるところでは、共にがあるのみで、平等、対等といったものすら青くさいものとなるだろう。

三宝 第153号 田辺聖恵