心の悪魔との対決

  「心の悪魔との対決」
 今こそ求められる仏教
 仏教とは仏けさまが救うて下さるもの、仏けさまの慈悲に満ち満ちたものと思われる方が多い。それと同時にその様な仏けさまがどこに存在するであろうか、と疑問に思う向きも多い。
 さて仏けさまの根本、もとおこりはどの様であったのであろうか。仏教とは釈尊によって始められた、人間としての究極的な在り方、いわば完全なる自己実現の道、最価値的な生き方―である。
 人間が最も人間らしくなり得る道、つまり現代において最も求められるべき生き方である。それが釈尊の仏教なのだ。
 何故、今日ほど最も求められるべき生き方なのであろうか。物質文明が今日のように進んできたことはない。物質文明とは、おのずから与えられるものではない。人間がそれを欲しいと思ったから出来てきたのである。欲しい欲しいという欲望の結果である。つまり物が豊かであるということは、欲望が豊かであるということだ。その欲望が物の方により多く向いていれば、心の方にはより少くしか向かないのが道理。一つの心が二つを同時に追いかけることは出来ない。まさに「二兎を追うものは一兎をも得ず」となる。それは現代の日本人が見事に証明しているところ、である。
 自分の幸せ、自分の家族だけの幸せを願いはするが、他の人の事に関しては、なるべく見て見ぬふりをする。他の幸せを願う事と自分の幸せを願う事を同事、同時にする事は凡なるものが出来るものではない。このように、自分の心の在り方を問題にし始めた時、その人は宗教的になってきたのである。さらに幸せの中身、本物の幸せ、と考えるようになってきた時、知らず知らず、その人は、生き方としての仏教を求め始めているのである。
 欲望の徹底分析                    
 「欲望を創り出す戦略」という本があった。現在の経済世界というものは、欲望が物を生産し、獲得する事を基本にするのではなく、欲望そのものを創り出す世界なのだ。これに乗せられていては、まさに欲望の大海に本の葉が浮かんでいるようなものだ。いつかは没して自己を失うというのは必然である。
 そのようにならないためには、どうするか。大きな経済という大衆操作の網の手から自分を守るためには、どうしたらよいのか。そのためには、まず己そのもの、欲望にふり廻され易い己そのものを知らねばならない。
 二千五百年前、釈尊は自分の心の中を、徹底的にみつめられた。(三宝法典 第一部 第六項 降魔)それは、単に欲望だけの事ではない。人間の心の奥底に、まるで蛇がとぐろをまいているように、えたいの知れない無気昧なものとしてある心を、えぐり出すようにして見せて下さる。欲はさまざまにあるが、それでもさほど分かりにくい、という事ではない。
 ところが、心の悪魔として、その第二番目に「不快」をあげてある。(三宝聖典 第一部第六項降魔参照)簡単に云えば気に入らない、という事だ。今の若い人の大部分が、この心で一杯なのではなかろうか。この不快は云い替えれば、「不安」という事かも知れない。この不快や不安は、あまり目立つような強烈な心の状態ではない。ところが、さまざまな欲望、願望がかなえられていないと、このようになる。つまり曇天のように心全体を覆っている様なものだ。あまり日立たないから、どうにかせねばならない、とも思わない。こうして、日本人は、知らず知らずのうちに、イライラ、せっかち、人の話も聞いていられない、とい今のの若い人の大部分がこの心で一杯なのではなかろうか。この不快は云い替えれば世界一忙がしい人間になっている。さあこれでいいのか。
 宗教へのそ向き
 不快や不安、それは自分の欲望が満たされていないからである。同期に人社した者が、一人先に係長にでもなれば、たちまち屈辱を感じないわけにはゆかない。つまり自分の名誉、自尊心が傷つけられた、という事になる−そうではないが、そう思うような教育を受けてきたのだから、そうなるのが当り前。フェヤープレィなどという心はまだ日本人には育っていない。何が何でも勝ち抜くぞ、勝たねば話にならぬ−とまあ戦前、戦時中の心が、打ちてしやまぬ、とばかり生き続けているのである。
 面白いのは怠け、これが悪魔だという。日本人のように働き蜂であれば、この怠けなど閔係がない様に思える。釈尊が云われる意味はどんなものであろうか。−利益の追求で家庭までダメにしてしまう様な働き振りをはたして勤勉と云えるのであろうか。人間としての「よりよき生き方」に対して、まるで考慮せず、時間をそうした面に使おうとしないのは、まさに怠けではないか。働きづくめで、あとはゴルフかゴロネ。それが続くのがゴールデン何とか、というのでは何ともはやお寒い話、と云わねばなるまい。
 怠けの反対は精進である。それは勿論、精進料理の事ではない。宗教的努力、宗教そのものに顔をそ向けない事である。日本人は今日、宗教に心を向ける時が、一年の内、何分間であろうか。
「疑惑」をあげてあるのも、実に鋭い。現代人は簡単に信じるという事をしなくなった。では宗教的な疑惑を、積極的に解こうと努力するであろうか。疑惑のままに放っておく。怠けでもある。こうしてはっきりさせようとしない事が、不快、不安になり、それが積もり積ってついに不満→怒りとなって自分を火で焼く事になる。
 知恵、知る事によって打破
 釈尊は何故出家までなさったのであろうか。何かによって救って頂くといった方式を進まれるのであれば、出家する必要は無かったかも知れない。しかし家庭生活にずっぷりつかっていては、自分自身とは何かを、徹底して見究めるという事は出来なかったであろう。
自分白身が分からないで、救われる、救われないを、いくら云々しても一種の砂上楼閣にしかならない。便利のいい生活をしていると、それは当り前と思われて、その便利よさに気付く事はなかなか出来ないものである。欲望のまっただ中に居て、自分の欲望に気付くのはほんの一にぎりの、鋭い感性の人でしかないであろう。
 出家とは欲望生活から離脱するという事である。そのようになる事によって、自分白身の欲望や愚ち(無知)怒りの心(この三つを三毒煩悩というー三つの迷い)を、さらにさらに深く知る事が出来る様になる。このような、心の悪魔を適確にとらえられる様になられたのは出家修道に入られて六年も経った後の事に違いない。
 それはこの一経の中に、「われは知恵にてなんじを破る」と明言されているからである。伝えられる仏伝にも、この悪魔の誘惑をしりぞけられ、その直後に悟られた、となっている。少し分析的に推察すれば、このような自己の深層を見究めることによって、自己自身に問題と責任があると気付かれた事が、覚りというものへ直結するものであると云えよう。責任や問題点が、救う側にあるとしたならば、救われた後の自己の在り方というものが出てこない。
 釈尊は自己の問題として、「知恵」によって自己を解決されたのである、一切は縁起の性質のままにあるという真理の知恵を発見し、自ら体得なされ、遂に自己の在り方を全現されたのである。
 正導の旅以外に無い
 覚りー悟るという事は、正しき思いを持ち続ける、という事である、人間とは何か、人間をとりまく自然とは何か、その両者の関係はどうなっているか。それは縁起性である。一切は相互関係にあって影響しつつ変化してゆくものであると知ることが正しい理解である。その理解によって今までの疑惑や悪感情がなくなり、友愛的な感情になる事が正しき思いである。さてこのように悟り、自己が解決されれば、もう自己中心的に、自分のために生きるという必要がなくなってくる。一切は相関関係にあるという事が、人間自然を一体として貫ぬく真理法である。悟るという事はその真理法そのものに自らなり切るという事である。
 釈尊はそのようになられた。一切は相互関係にあるという事に自己がなり切るという事は、相互関係を実践する、互恵真理を実践して生きるより外はない、という事になるのである。
 「国より国へと旅ゆかん」と釈尊は決意し、その様に四十五年間、旅から旅へとゆかれ、少しも停滞される事がなかった。それは単なる旅ではない。弟子や信者を導く、正導の旅である。しかもその法、その道は少しも難解ではなく、誰でも理解し納得できるものである。
 それによって沢山の弟子たちがニバーナと云われる悟りを体得する事が出来た。そしてその直弟子たちは、その能力に応じて、それそれが、弟子や信者を正導する旅に出たのである。ここに単なる観念論でない、体験と実行の宗教の本質が行われたのである。
 十二月八日は釈尊が悟られた仏教者にとって、最大の記念すべき日である。それは釈尊が正導を始められる開始点でもある。仏教者のあるべき、行うべき最大お手本の日とでも云うべきであろうか。

三宝 第134号 田辺聖恵