信者と弟子の差異

「信者と弟子の差異」
 ここの神様は有難い神様だ、昔からよく信仰されている、といった意味合いのものを信仰と思っている場合が日本では多い。何だかよく分らないが、拝むと気持がいいといったのもある。ご利益があるそうだからお札を受けてきてやったよハイ、といった式もある。お産や受験ともなればあちこちから善意のお札が届けられる。
 自分の所の神棚の神様の名前も知らず、お仏壇の意味も聞いたことがなく、ご先祖のお位牌を拝むことが信仰だと思っている人も多い。親と同居しない新家庭にはまるきり拝む対象がなく、宗教の必要性を感じるという事もほとんどない。
 信仰とは人間を超えた価値あるものへの信頼という意味合いが強い。宗教とは価値あるものが何であるかを理解せしめる教えを含むものを言う。この二つは重なる場合と別々の時がある。ある人に一体何が本当の価値なのかと疑問を生じる様な時には、何となく有難いといった信仰では問題、疑問が解ける事にはならず、間に合わないものとなる。その様な疑問に答え、批判力に対応するものが真の宗教と言い得るものであろう。まずは信仰と宗教の差異を知る必要。
 何らの疑問も批判も生じない人には、信仰も宗教も要らないかも知れない。だが今日は相当な学校教育がなされるから、遅かれ早かれ、「人間は何の為に生きているのか?」という生存の根本に関する疑問を生じる様になる。学校教育がそれに答えられない、あるいは答えてならないもの―であるとすれば、それに答えるのは経済や政治、文学や哲学であろうか。そうした求道を専門にするのが宗教であるはずだ。少なくとも釈尊の仏教はそうした仏教である。
 
 『宗教の時代』
   日常の幸不幸も 因あり縁あり
   日常を超えた聖なる境地も 因あり縁あり
   人はまずこの因と縁に気付かねばならない
    日常の物心を求めて得られれば 幸福
    宗教的教えによって物心に対すれば 浄福
    宗教の一端を何がしか荷なえれば 聖福
   物が豊かになって心の時代だという
   それは宗教を選択する自由という事だ
   それは宗教がより純粋になれるという事だ

 [宗教選択]‐了解選択のない宗教は形だけの信仰や習慣になる。選択資料を提供出来ない宗教はそれ自体が選択される。単なる信仰は教義を持たず偶発的な力への信頼期待となる。そうした事への是非批判から宗教教義は始まる。

    『宗教への毛嫌いは一種の無知対応』
 選択は理知によるものと感情によるものがある。人間にある理知欲求を当然なものとすれば、現代宗教はそれを満たすものでなければならない。二千五百年前に解明された釈尊仏教はその点において第一級の現代性を持つものだ。
宗教が教義を持つという事は批判を受ける事である。あえて言えば教義を宣説して批判を受ける積極行動を持たねば宗教の名に価いしないという事になる。その宗教自体も自ら宣説する事によって自己洗練してくる。その洗練や煮詰めが必要になるのは、それを受け
る側の大衆が時代影響を受けて変化してくるからである。
 今や学生によって大学が選択される時代になってきた。宗教もまた選択を受ける側となり、同時に信者を選択する時代にもなってきた。超能力まがいや盲信原理を教団方針として大衆操作するのは、ファッション企業の戦略と変わらないお客選択である。
 さて仏教のお経とは何か。ハンニャ心経を唱えれば不思議な霊力がつくといったマヤカシを粉砕する明確な教義、選択資料である。節をつけて有難そうに情感をゆさぶる様なフルマイをしないものである。初歩信者と専門修道者とを一緒くたにしない、節度のある段
階学習法である。誰でもが初心コースから奥行きコースへと進めるものである。そこにはアイマイさも特別の秘伝もない。
 上記に三宝聖典から二編(三宝法典 第二部 第二十一項 一夜賢者)(三宝法典 第二部 第二十二項 信女カーリゴーダー)を選んで並べたのは、信者の道と弟子修行者の道の差異わ知っていただくための資料である。弟子の修道法は日日の修道具体法もあるが、ここでは覚りという修道目的が今日のものとして説かれている。死後においてではない。従ってそれ相当の専修が必要になる。信女力−リコーダーに説かれるものは、死後における覚りの約束である。勿論、女性でも生きている間に悟る事も可能であり、専修者となって目的達成した実例は多く述べられている。信者としてもその信仰が確立し、布施実行が充分に(多少ではない)になされる時、悟りに一歩手前のような歓喜が得られるとされている。後期の仏教になると、この様な段階性をとばし、本質が強調されるようになったので、理解了知してゆきにくくなったとも言える。釈尊は何故、この段階法を採用なされたのか。それは仏教信者が一人も居ない所から、一人々々を納得させてその道を選択し得るようになさった、その当時の実際性から来ているのではなかろうか。旧日本人には向かなかったかも知れないが。

三宝 第154号 田辺聖恵