学習・体験・生活化・正導

 「学習・体験・生活化・正導」
 いわゆる信仰と言うと、何かが神秘的な力が自分を守ってくれる事を信じる、といったふうに思われるのではなかろうか。仏教もその様なものだと思うと、今日の日本のような宗教無関心が生じてきた理由が分かるようだ。
 徳川時代の人々の生活・仕事の原理は儒教であった。孔子様も論語の中にあるように「怪・力・乱・神」を語らずとしておられる。
その様な不確かなものや神秘をあてにせず、修養と勤勉努力をせよ、というのがメインーテーマである。農耕民族としては努力さえすれば、その中何とかなるという、まことにピッタリの教え。
 それが明治になって西洋に追いつけ追い越せ、農業が機械生産になっても勤勉努力残業と、行動原理を変える必要がなく、いつの間にか仕事で修養と、修養も宗教も皆仕事の手段となる。そこに敗戦という、神風は吹かなかったという事実が日本人を決定してゆく。
 さて暮らしは豊かになったから、今度は心を豊かにというわけだが、これがどうもよく分からない。お正月は外国で、カルチュア・センターで万葉を、家具は手間ヒマかけた手造りで〜とどこまでが物の豊かさどこからが心の豊かさか、どうも判然としない。
 まことに不思議に思う事だが、ケサ衣をつけてテレビで仏像彫刻を教える方が登場し、今度は同じくケサ掛けの方が墨絵指導をされる。お茶や活け花はずっと昔からだが、その中ケサ掛けでプロレスを指導する方が現われるかも知れない。キックボクシングの解説を
楽しくやっておられたお坊さんがいた。この有名な方は競輪の解説、小説書きとまことに豊かな方であったが、その節はケサ衣を着用ではなかった。ベレー帽を冠ぶられるあたり、仲々の見識である。
 真の仏教者釈尊やその直弟子たちが着ておられたものは、最低の修道日常服三枚だけであって、儀式用葬式用などと使いわけをしておられたのではない。今日でも南方仏教ではそうした初心が守られているので、日本だから出来ないという理由はないはずだ。
 衣のことをあげつらう様であるが、そこに生活態度、修行心得が現われてくると思われるからである。インドで白衣を修行者は着ないというのは、在家信者よりも豊かな着物を着てはいけない、修行者の根本精神からの事である。道元禅師は「貧道を習え」と言われ
たそうだが、権力者に迎合し、豊かな支援をあてにする様になったら仏教でなくなると確信しておられたからであろう。親鸞聖人にして日蓮上人にしても豊かな服装をしておられたとは思えない。
 心の豊かさは物の貧しさと比例すると、こと仏教に関しては言えるような気がしてならないのは、私だけであろうか。

      『意義と文句』
   意義と文句をそなえたる法を説けと
   生ける釈尊はその弟子衆に命ぜられる
   人間ブッダの人間への導き方針がそれだ
    仏教の最終目的はニバーナ覚りであるが
    釈尊はその意味合いと価値利益を説く
    言葉を超えた体験であるが言葉を尽くす
   言葉をぬいた体験主義は伝達し難く
   言葉のみの言論では枝葉論になり易い
   これこそが仏教の今日的な問題点だ

「意義と文句」ー覚りの体験は言葉を超えた世界であるが、言葉を尽くさねば誰もそれを求めようとはしない。知らないからだ。釈尊は真理の理解と体験、その方法と奨励に一生を捧げられた。それが仏教者の真の生き方でもある。

    『釈尊にまるで触れないのは仏教か』
 神秘という力信仰から、理解と体験という覚りの宗教に脱皮するのは容易でない。前者は飛び込み易く捨て易い。
後者は志し難いが又去り難い。いずれを選ぶかは現代人の資質と環境問題というべきであろうか。
 
仏教が信仰であると同時に宗教であるという事が、まずハッキリしなければならない。教えとは分かる事を分からせることである。分からない事、分かる必要がない事に首を突っこまないという事である。分からない事、分かる必要がない事とは、自分が現在持っている人間としての根本的な苦悩解決に役立つかどうかという基準に照らし合わせて判断し、取捨選択するものの事である。この世界が永久に続くかどうか、有限かどうか、霊魂はどうか、如来は永遠の存在かどうか、これらは哲学的には面白いテーマかも知れない。がそれは実証のしようがないものであり、また修行に役立つ事でもない。そうしたものは戯論として排除される。
 地位や名誉や財産生活の安定、身分の保障なども、こと覚りに関しては関係のない事である。その様な仕事や生活の手段に使うことを目的として、ハンニャ心経の解説などが市場に出回っているが、仏教をいよいよ道具扱いにして分からなくさせるものであろう。
 ここに掲げた「毒矢の譬え」は、人間の知的欲望、はてしなく、必要でなかろうと知りたがる、まさに知惑に対する、釈尊の徹底的な指導というべきであろう。お前は何を目的として仏教に入り、何を学習し、何を体験し、いかにそれを生活化し、他に正導してゆく
か、とこの一点において厳密な正導を釈尊はなされる。
   「つねに燃えつつあるに、何の笑いぞ、何の喜びぞ。
    おんみらは闇におおわれて何ゆえに、あかりを求めざるや」
 これは法句経(ダンマ・パダ)の一句。これこそ生きた釈尊の、まさに痛切な叫びである。燃えつつあるとは一日一日確実に死が近づいているではないか、という事、この事実の前には心の豊かさなんて話はふっ飛んでしまう事である。
 もしこの様な話をまともに聞いたら、まさに息苦しくなるに違いない。私たちは、もう読み物を通してしか釈尊を聞くことが出来ない。真の継承者を見る事は不可能に近いからだ。釈尊は言葉を尽くせ、と言われる。確かに仏教は口説にとどまるものでなく、体験すべきものである。だが、仏教の口説人口を増やさない限り、体験者の登場など望むべきもない、という事になりはしないだろうか。

三宝 第155号  田辺聖恵