行動の自由と責任

「行動の自由と責任」 

祈祷と祈念
 先日、年忌の法要に呼ばれ参上した。ご一同揃った所で、和訳のお経本(三宝信行式−弟子と信者との在り方を集録)をお配りし、ご一緒に誦読した。その後膳席で仏教の在り方を短く法話する。
 中にお一人、ある新興教団に入り、ガンで死ぬばかりだった母が治ったとしきりにその有難さを述べられる。その教祖様には首すじからアミダ仏が入られ、様々なご利益を与えられる様になったと。
 天台宗系統との事であるが、その密教性がその様な奇跡行動となってくるのであろう。同じアミダ仏信仰でも浄土門系統は、祈祷願いを特に戒しめられるので、まる反対になる。 現在の様に医学が進んでも、新たな文明病が次々と登場して治りにくくなる面も増大する様で、ご利益というか奇跡的な神秘力を求める人が、都会ではどんどん増えつつあるそうである。
 病気治しに限らず、願い事をしようとするのも、迷信扱いするわけにはゆかない。問題があればそれに流されるのが自然ではなく、何とか解決したいとするのが人間の自然と考えられるからである。
 世界大戦が近々の中に二度も起きて、一体どこに奇跡があるのかと首をひねらざるを得ないが、個人間においては奇跡と思われる様な事はしばしばあるものである。このタイプ中にお電話があった。ご祈念(願い事)を頼まれていた事がかなえられたので、という感謝のお電話である。この三十年近く、様々な方の願いをご祈念してきて、大体かなえられてゆく事を知っているが、これを私は奇跡とは考えない。感応力というか人間の集中力の範囲と考える。そこで祈祷とせず祈念とするわけだ。祈祷は神仏の神秘力に訴えようとするものだが、祈念は自分の願い心(目的意識)を集中し、その達成を強く思う(念とは強く思い続ける事)ようにする事である。従ってその心を神仏に向けても、理法に向けても、自然に向けても、自分自身に向けても構わない。最終的にはその結果の責任は自分が負うものだからである。
 さてこの様な心構造と釈尊の仏教とはどうつながるのであろうか。まず結果をどう受け止めるかから逆に考えてみよう。ここで釈尊の仏教と限定するのは、日本仏教はあまりにも種々あって話が混乱するからである。釈尊は高度な真理(縁起法とその体得覚り)の話をなさる前に、「業報論」をなされたのである。これは業つまり行いによって結果の報いが来るという事である。
 これは当時の大半の人が神様の神秘力を願うという信仰を持っていたからである。神様によって運命が決まっているならば、人間はこうなりたいという希望を持つ事が出来ず、従って努力行動を起こさない。これでは真に自己を満足させる事は出来ないではないかと云われる。戦いに明け暮れしてきて、いまだに止まないのは、人間に欲望的な自由意志があるからである。自由がある以上、責任もついて廻わる。自由なるが故に、人間は向上もし向下もする。戦いへの反省が真の平和への祈念ともなる。
 仏教は、人間が行動存在であること、そこに自由と責任があり、神罰や不思議力で支配されているのではない事をまずハッキリさせる。その上で人間の能刀を極限化最大化しようとするものだ。

      「施と真理」
     釈尊は身と心を施して真理を解明された
     真理の為に自我中心を施し尽くされた
     その真理を正導すべく身と心を施された
      釈尊はその身と心を支えるために
      善き信者の施食を受けられた
      教団の為に精舎を受けられた
     弟子信者もまた持てるものを施して
     真理を学習し解脱せねばならない
     真理の為にそれを伝え広めねばならない
  
   真の仏教目的は超能力以上のもの
 超人の法超能力を求めようとする弟子スナカタは、それが得られないとして釈尊の説得もきかず去っていった。釈尊の仏教が神秘刀を主とするのであれば、釈尊は超能力を使って引き止められたに違いない。だが釈尊は仏教の本来の在り方を、論理をもって説明され
る。「わが教えはまさしく苦なき境界に入らしむるものなり」だから超能力などは必要がないし、その超能力が目的ではないのだと。何という明解さであろうか。あやふやさがまるでない。 その様な目的(覚り、ニバーナ)達成のためには、よほどの集中力がなければならない。又その様な集中力を使うためには、自発性が無い事には話にならない。集中力も練習であるから継続せねばならない。この継続には自発力を根底にする。この自発力は自分自身の納得から出てくる。イヤイヤながらの、他律強制からは出てこない。仏教が甘えや子供の世界のものでなく、大人の宗教とされるのは、難しい哲学性からのものではなく、この自発性によるものだからである。勿論、世の中をはかなんでなどといった逃避ではない。
 「苦なき境界」とは苦しく感じる感情の転換である。喜びに転換するのではあるが一時的な興奮状態のものではない。もしそうであれば苦と楽、相対のものでしかない。仏教の苦滅、浄楽はただ単に感情状態を云うのではない。そのような相対感情の出所である、ものの根本の考え方を変えるという事である。
 自分中心にばかり考え行動するから苦悩が生じてくる。その自分とはどういうものであるか、価値的には人間はどの様にあるべきであろうか、と人間の本質、実態と価値を考える様になって得られる様になるのが知恵真実の世界である。釈尊はその様な曲折を自ら通られ、宗教者としてのあるべき(価値実現)生き方に到達され、かつ続行なされた。それは人間の在り方の真理を中心にしたものである。自我欲中心から、真理実現への質的転換である。
 相対的に在りながら絶対的な生き方をなされたのであるから、ある意味では神秘的と云えるかも知れない。人間一般の常識を超えて居られたのであるから。しかし何人でも、志せば同じ様な道を歩むことも可能である。その故に神秘ではない。
 この短いお経で、バガバが覚りに至る法を求めたところ、釈尊はただわれに対する信仰を守るのがよかろうとされた。異なる教えに属していて、純粋な覚りに入るのは難しいとされた。それは覚りとは矛盾排除の自己統一だからである。誰でも覚れる救われるなどと安易な話にしておられない所が、肝腎な要め所である。ここに生きた宗教、体験と行動の宗教の本質が現われている。
 信者としては、これを支持し、あこがれ、聞法行動をし、その信を深めてゆくことが期待されている。そこに真の利益と浄福が恵まれてくる。信者の道も決して安易な甘えのものではないとすべきだ。

三宝 第150号 田辺聖恵