行動による変革の仏教

「行動による変革の仏教」
 特に宗派の専門的な仏教書を読むというのでなく、ごく一般的な仏教入門書を読まれた方もかなり多いであろう。そうした入門書にはたいがい原始仏教つまり釈尊の教説にふれている。つまり「縁起説と四諦説」であると。そしてそれから後期の宗派的な大変難しい解説となる。これは仏教学者が書くからどうして学問的となり、哲学的な難しい話になる。それも漢文化された翻訳経典を引き合いに出しての文字解釈が加わるから大半の人は分からないという印象を受ける。そこから宗教心を発生させることはまず無いようだ。
 これらの解説書は思想(哲学)を明らかにしようという意図のものが多いので、宗教そのものは余り説かれない。そこで仏教書の第一に必要な事は、思想と宗教の違いを明らかにする事である。
 たとえば引力について。私たちは学校のどの段階で習ったかは覚えていないが、まず例外なしに大人は知っている。もっともこの頃は重力と言うそうである。これは物理科学思想である。この引力重力なしでは総ての生物生命は地球上に存在し得ない、簡単に言えばすべって転んで歩けもしないという事である。この位の事は小学生でも知っており、かつ分かる。大人はこれをうまく利用してカセいだりしている。だが誰一人、それつまり重力に感謝する人はいない。もしではなぜ感謝しないのかと問えば、恐らく「当たり前だから」と答えるであろう。つまり思想には感謝がないと言える。
 宗教とは少々暴論的かも知れないが感謝である。ああ有難いとなるという事だ。どうして感謝になるかというと実行するからである。実行すれば直ちに反応手応えがあるし、またくり返えす事で身につく。身につくとは学習する前からすると際立った自己変革が生じるという事である。自己変革のない宗教はマユツバものだ。
 この宗教に似ているのが通俗的な信仰である。信仰という言葉に限定すれば信つまり観念だから必ずしも行動を含んでいない。これは観念の変革はあっても全人格的な変革は生じない。人間は行動的存在であって観念だけの存在ではないからだ。
 従来は宗教という言葉が余り使われず、信心という表現をしてきたが、これは行動を含んだものと考えるべきであろう。そうは言っても日本化された仏教はあまり行動的でなかった事を認めずばなるまい。日本では覚るかどうかの「行」は問題にするが、仏教者や信者の行動はほとんど問題にされていないという特質?がある。
 以上のように思想・信仰・宗教と三つを並べ、人間としての行動と自己変革、それからくる感謝と比較すれば、今日、何故日本人が無宗教ですと平気で自己表現する理由が分かろうというものだ。
 さて、(三宝法典 第一部 第十三項 )をみてみよう。釈尊仏教の最特長である「四聖諦」の説明である。これは四つの論点というか自己認識から成り立ち、自己変革を徹底させるものである。
 現状認識(苦の真理)−人間が最終的に苦の存在だと。
 原因分析(因の真理)−無智的な欲望を主にするからだと。
 目的確立(徹底真理)−いかにあるべきかの欲求自発をする。
 実行方式(実現真理)−人間の全域にわたる行動様式の定則化。
これだけで自己変革が生じないという事は一読で理解出来よう。

 日本仏教の祖師方は、釈尊の時代はよき時代でその教えがよく弟子において実行され、実証成果が得られた時代だったと受け取り、さて今は(鎌倉時代)動乱の時だから、平安の時の釈尊仏教は通用しないという立場をとっておられる。こうした誤伝がされたのは、後期に作られて釈尊を理想化した伝記によるものである。
 だが今から百年前に日本でも読めるようになった原始経典を読めば誰でも分かるように、実に動乱の十六力国が分立していた時代である。平和で安全保障をされていたなら、釈尊は後継ぎをして小国ながらも王様になっていたに違いない。だが強大な隣国の圧迫を子供の頃から知っていた釈尊は、その様な不安定なままの平和を求めるようないい加減な生き方をしようとはしなかったのである。
 この力がものを言う政治的相対的な道に限界を感じられたのが釈尊である。人々を心底から平和にする為には政治では限界がある。これは今日の日本を見れば福祉を行政レベルでしかなし得ない事、そのことごとくが後追い行政である事を見ればば分かる事だ。
 この動乱の中で、一人の人間か政治権力に左右される事なく、真の自由人になる道は何か。それは政治に限らず、一切の不安、無知からの脱却より外にはない。かくて出家という政治権力の外に立って自己を全うし、多くの弟子もその道を継承する事が出来た。信者諸氏はこれらを支援する、供養する事で参加する事が出来た。政治を是正しようと弟子をひたすら教育したのは孔子聖である。道は別であったが人々を愛し平和を願った事に変わりはない。
 動乱の時代であればこそ、誰しも心底から納得出来る真理によらねば、すでにかなりな知性を得ている犬衆を納得させる事は出来ない。第一釈尊白身が納得出来ない。初めに掲げた『四聖諦』は釈尊が独白に構成された人間目的の達成法である。この解説には多少紙数を要するが、もし求めるなら誰にでも可能な道である。
 「縁起」の真理を静思によって会得された釈尊は、これを誰でもが理性的に理解出来るように工夫された。それは当時の人々が高度な理性を持ち、よく分らぬままに救いを求めるといった事では間に合わなくなっていたからである。このようにカチット構築された方式でなければ真の正導救済が成り立たないからである。
 その後釈尊は全くの無報酬で四十五年間、野宿の旅を続けながら正導して歩かれた。そうした仏像でない行動エネルギーは何所から出てきたのであろうか。それは動乱である。精神的動乱が精神的英雄を産み出す。さて今日、何人が動乱性を感じ取るであろうか。真の仏教はそうした鋭敏さの中からしか生じないのである。

三宝171号 田辺聖恵