釈尊の聖言 「乞食」

釈尊の聖言
 鉢を手にして戸毎に食を乞うは、いやしき生活の仕方なり。この暮し方に在家の子が、自らの意志によりて来たり、王命によらず負債の為にあらず生活の為にもあらず、生老病死や憂悲苦悩を終らしめんとして来たりて、しかもむさぼりを離れず、常に怒り思い汚れ五官をおさえず、心を乱すなれば、出家の目的を果たし得ざるなり。
「乞食」(こつじき)
 宗教者修道者は、その社会において最低生活者でなければならない。己の生活安全のために蓄える事があってはならない。常識から云えばまさにいやしい生活の仕方である。信者がどのように期待し、支持の供養をしようがしまいが、自らの意志でこの道に入るのである。
 生活の安全が保証されている所に真の求道は成立しない。それは鎌倉時代の日本仏教の祖師方の暮らし方を見ても分かるものだ。幸福とは安全保証の世界である。覚り、救われ、仏教の聖なる目的とは、安全保証を超えた所の世界である。
 一般の人は想像すらしない。かりにそれを尊敬しても、自らその道に入ろうとはしない。その様な道に入るものこそ真の自由意志を得たものである。
 今日こそ、その様に奇特な方の出現が最も望まれるものである。文明混迷の世にこそ、真実に輝いた道を示し、かつ実行される方が最も望まれるのである。