原始仏教講座 第五講 その五

第五講 その五
 正法そしるも者のぞく。真理正法、そんなものあるもんかと、そんなの話に過ぎない、というようなのが正法そしるということになるでしょう。仏教の世界、真理正法の世界ですから、そんなものあるもんかという人は例外になる、行かれないとなる。とこうお経にはこう書いてありますが、これが日本仏教になりますと、その五逆の罪を犯した者はのぞくとしてあるが、それはそういう罪を犯す前に罪を犯さないようにとして言われたのであって、すでに罪を犯した人がいると、そういう人はどうするか。そういう罪を犯した者でも、救いとるという話に変えられていくわけです。
ですからどんな罪を犯した者でも皆救われると日本仏教ではなるわけです.お経にはそう書いてない。罪犯した者はのぞくとありますから。
それから真理正法そしるものをのぞくというのを、これをのぞいてしまうと、矛盾がくるわけです。お浄土とは真理正法の世界である。でそれをそしる者も行かれるというなら、そこに行って、こんなとこ何になるかと言っている人がそこに混じっているというなら、それははた迷惑でしかないわけです。その人が悔い改めて、ああやはり俺は真理正法分らなくて、そしったりしたけども、やはり真理正法の世界でなければならないとなれば、それも例外ではなくなる。ということになりましょうが、一応、真理正法をそしるということは、お浄土そのものを否定することになるから、論理的にもそれは行かれない。例外となる、というのが論理の世界ですね。
 ところが日本仏教は論理を主にしていないから、全部その仏様がすべてを救いとるという話になっていくわけです。それは非常に哲学的になるともいえるし、非常に情緒的になるともいえるわけです。論理を抜いていきますから。いわゆる超論理になるわけです。