原始仏教講座 第五講 その三

第五講 その三

阿弥陀経とか法華経が出来たのは紀元元年前後なんです。時代によって差が出来てきます。なぜかというと、前のお経をふまえて、前のお経の批判して後のお経が作られるからです。だから段々論理的に、非常に哲学的になる、なり過ぎると、その度に宗教性が薄れていく、分らなくなるということにもなります。
この大慈悲とする所のものは、お経によりますと、法蔵菩薩がいたと、その法蔵菩薩、菩薩というのは在家の人、家庭にいる人。法蔵というのは法の蔵なんです。法の蔵というのは真理ですね。だから真理を象徴しているんです。法蔵菩薩という形で真理が人間、菩薩というのは家庭にいる仏教者ですから人間です。いわゆる宇宙的存在、人間を超越した存在ではないのが菩薩。それが、真理というのは抽象的なものですよね、真理が人間化されてくるというのが法蔵菩薩というわけです。
 その法蔵菩薩が、宗教的に目覚めて、そして世自在王如来という仏様の所に行って、自分も宗教活動したいと、宗教活動するのにはお浄土を作りたい、そのお浄土とはどういうものだろうか、と質問する。そ
のお師匠さんの世自在王如来という仏様が、それじゃあお浄土というものを見せてやろうと、色々あるぞというんで、二百十億のお浄土を見せられたとお経に書いてある。インド人というのは非常に数字的に、象徴的というか文学的というか数で表わすんです。お浄土が二百十億もある話なんです。それをパッパッパと見せられたというのだから、まさに今のテレビと同じなんですね。
 でその法蔵菩薩がそれみんな見終わって、物足らんと、こういうお浄土で、いわゆる宗教的世界ですね、これでは物足りないと、私はこういうお浄土を作りたいと、願かけするわけです。それでそのこういうお浄土を作りたいというんで、48の願を立てるわけです。