原始仏教講座 第五講 その六

第五講 その六

 そこで超論理になるから論理が分らなくなるということになってきます。それでお浄土に行ける往生出来る、ああ有難いという信仰は成り立つが、人間とは何か、真理とは何か、すじ道はどうなっているのかという話はあまり出てこない。全然出てこない。それで信じるということが出来る人はいいが、信じられない人はその信仰の流れに入ることが出来ない。という現在の状況を生み出しているわけです。
 日本式になりますと阿弥陀さんが救って下さるという話になっていますが、お経そのものでいきますと、このお経が出来た時代は坊さん達に任せていたのでは駄目だと、家庭におる我々が仏教信者、我々菩薩が宗教活動をしなければならないと、そうすると宗教活動をすれば、仏様というのは宗教活動をする方である、で人を救う人を導く宗教活動する人、だから我々も宗教活動すれば、仏様がすることを同じ事を我々もやる、仏様と同じ事をやる我々も仏様と同じになるではないか、論理的言うとそうなります。
 宗教活動をすれば仏様と同じになる、だから宗教活動をしよう。我々は仏様と同じになるためには宗教活動をしなければならない、だから宗教活動をせよという主旨で書かれたのが、この大無量寿経であり、後でいう法華経なんかになるわけです。ところがそれは仏様の話ではない。法蔵菩薩が、法蔵菩薩とは仏様なる前ですよ、その法蔵菩薩がそういう宗教活動をしている、仏様と同じような行動をしている、として宗教活動をした。その結果として宗教活動したから仏様と同じ行動したから阿弥陀仏という仏様になったとお経には書いてあるんです。私が言うんはないですよ、お経にそう書いてある。ということはですね、宗教活動せよということなんです。