釈尊の聖言 「完全に知る」

釈尊の聖言
清浄の行いをなすは人々をあざむく為ならず、むだ口の為ならず、尊敬と名誉と利益の為ならず、自らを調え諸の悪を捨てんが為なり。完全に知らんが為なり。
「完全に知る」
 釈尊の仏教は、何のためにするのかと常に目的が正される。家の先祖からの習慣でするのか、何かのご利益を求めるのか、思想教養とするのか。むだ口の為ではないぞとは又何たる痛烈さであろうか。何をさて置いても一応の見通しが出来る位までは熱心に求めるというのでなければ、まあ精神的アクセサリー位にしかなるまい。
 なまじっか知ってくるとうぬ惚れがウジ虫のように湧いてくる。あの人は間違っているとバッサバッサと切りまくる。知る事と己の悪がどれ程捨てられるかという事はあまりにも距離がある。仏教では知る事は信を伴わねばならない。信は謙虚さを伴うものだ。謙虚さはますます己の未熟さを知らせるものだ。こうして知る事は次第に深まってゆく。そしてその先に完全に知る−仏教目的の悟る救われるとなってくる。まあ一生ではとても間に合うか?