釈尊の聖言 「恥じる心」

 釈尊の聖言 
ビクに熱心がなく恥ずる心なくば、正覚を得、ニバーナに入り、無上の安らぎに至ることなし。
 「恥じる心」
仏教に限らず、ある程度を極めるためには熱心さが要る。特に仏教は人間として可能な限りの高度なというか、理想的な境地をめざすのだから、通常のことでは到達するものではない。
 又仏教では、たいてい師につくものであるから、種々に励まされる事もあろう。ところで釈尊は恥じる心の必要を挙げておられるのは何故か。
 もし自分なりに定めた基準を持ち、それの達成が出来ない時、自ら恥ずかしいと思うようであれば、その人の達成意欲は本物である。これこれの理由で達成出来ないのは仕方がないとすれば恥ずかしいとは思わない。ここの違いであろうか。目的は自己化されねば本物とは云い難い。さて少々専門的ではあるがここで正覚とニバーナは同じ内容として云われている。後に小乗のネハンではいけないと云われる様になるが、元来はこれこそ仏教目的だった。