原始仏教講座 第五講 その十四

第五講 その十四
 ある時は、この衆のために、こうした人々の為に、仏寿無量、仏の命は無量である仏寿無量なりと説き、仏の命は永遠であるぞと、その永遠の仏様を信じなさいというような話をする、久しくたって、だんだん話を聞いてきて、永遠の仏陀、永遠の仏様、このような哲学的な話を聞いて、なんだかどうもなと思うようになってくる。久しくたってブッダを見たてまつる者には、久しく経たなければ、本当の生きた人間としてのブッダを見ることが出来ない。そういうのはなかなかあうことは出来ないと、抽象的な永遠の仏様はお寺に行くと、いくらでもどこのお寺でもありますが、生きた人間としての仏様というのはなかなかあうことは出来ないわけでしょう。皆さんまだあっていなかったわけです。
 われつねに衆生の道を行じ、道を行ぜざるを知って、衆生のこの宗教的な修道修行、生活行動そういう行を行うも者、それから話は結構だがという話だけでとまる人、そういう段階がある。それを知って、それに応じて種々の色々なお話をしてきたんだ、だからお経は沢山あるんだというわけです。
しかし、まあひっくるめて、つねにみずからこの念をなす。つねにお釈迦様自身が言われた言葉と一応してあるわけです。つねにみずからこの念をなす。いかにしてか、衆生、人々、衆生をして無上道、この上もない仏教の道に入らせ、すみやかに、仏身、仏の身、仏身を成就なさしめんと、と思っているというわけです。
 ようするに仏様はお釈迦様はどうしたら皆が、私と同じような仏になることが出来るだろうか、そういうようになるようにといつも思うている、それが仏心である。というのでここの項目を仏心(ぶっしん)ほとけごころと私が名付けたわけです。