田辺聖恵 の検索結果:
…を着てはいけない、修行者の根本精神からの事である。道元禅師は「貧道を習え」と言われたそうだが、権力者に迎合し、豊かな支援をあてにする様になったら仏教でなくなると確信しておられたからであろう。親鸞聖人にして日蓮上人にしても豊かな服装をしておられたとは思えない。 心の豊かさは物の貧しさと比例すると、こと仏教に関しては言えるような気がしてならないのは、私だけであろうか。 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…に生かされの世界だ [欲望転換]−欲望を持つから苦しむ、だから欲望を捨てよと言われてもなかなか捨てられない。それは人間が欲望充足による喜びを求める存在だからだ。であればその欲望をもっと価値ある欲求に転換して充足を求めればいい。 『勤勉は美徳だが施心を含まない』 働き蜂と言うが蜂は分業し互いに分かち合っている。そこには生物の共存の原理がある。日本人が軽蔑されるのは単に働き過ぎだけでなく、自分だけ善かれで共存性がないという事でもあろう。施しの歴史が無いからかも知れない。 田辺聖恵
… 仏教徒の道徳生活 田辺聖恵 日本仏教の出家は、出世の望みがないからとか、逆に宗教界で有名になるためとか、首をはねられるところを出家して世の中にかかわらないことを条件として許されるといったことでなされたことが多い。これでは在家信者への正導といったかかわりが生ずるわけがない。つまり本当の釈尊仏教が行われるということはほとんど絶望だったのである。 その総決算的批判が、明治政府による排仏棄釈である。そして敗戦後、観光寺院としてその残骸をさらし、文化遺産だと空威張りをしている。金ピカ…
『依存と互恵』 田辺聖恵 人は様々なものに依存する 時には互いに互恵し合いする そこに人の弱さや美しさがある 人間はもともと弱い存在であり 自然や社会に依存せざるを得ない そこから生かされ意識も出てくる 人間はもともと共存存在だから 互恵し合う事に喜びを感じる 生きる意義を見いだしもする [依存と互恵] 様々なものに依存せざるを得ないのが人間であるが、そこを自覚しないと傲慢になったり、溺れたりする。余りにも自分本位になったり、自然を支配改造しようとする。そうして自己の存在意義…
… 仏教徒の道徳生活 田辺聖恵 出家への誤解 仏教に限らず、真の宗教は、人間のよりよき生き方を教えるものである。 仏教とは、仏陀(ブッター真理を正しく悟り、人々にその真理を正導なさる慈悲の行動生活をなさる方)の教えであり、又、弟子信者もいつかはその師仏のように、ブッダになって、ブッダの行動生活をするというブッダになる道の教えとも云われる。 仏陀が教えて下さる-とは、仏陀というものが『生きとし生ける者の中で最高である』ということを現わす。釈尊は、人間としての最高の生き方、まことに…
…晴らしい事でしょう。 求めるものがあればその求めるものを施し与えてゆく、すると必ず得られる。他を喜ばせれば自分にも喜びがくる。これが互恵性の実際であり筋道です。この常識的な事をただ単に常識とせず、筋道真理と理解すればその実行に力がこもります。その実行の結果は必然です。このいわば単純な真理実行によって自他が「共に生かし生かされ」となりたいものです。そこに幸福と充実があります。そこに人間としての存在価値があり、人間としての熟成もあるわけです。その様に生きたいものですね。 田辺聖恵
『柔軟に生きる』 田辺聖恵 どうにもならぬ との思いと どうにかせねば との思いと 時折こんな思いに責められる 完全主義もしばしば苦しむ 安易主義もやがては苦しむ ソフトな使い分けも必要だ 人が生き方基準を持つならば もっとスッキリと生きられる もっと柔軟に生きられる筈だ [柔軟に生きる] いわゆる真面目というのは直進型とも言える。勤勉という長所を持つが対人性が苦手である。そこでは柔軟性が特に必要だからだ。今日の様に人本位の社会になってくると、対人能力が決め手にすらなる。 『…
…日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 大事の伝承 日常善を土台とせねば、真理聖への道は開けない。又真理聖を背景に持たねば、日常善は、自己中心にたちまち堕落する。今日の自由主義の教育が、何らの権威としての背景を持たずに行われた結果、子捨て、殺人、ヤクザ、性のハンランとまさに地獄絵を作り出していることに思い到らねばならない。自由自体はそれだけでは権威とはならず、自己中心の根拠としかならないことを、一日も早く気づかねばならない。 こうした啓蒙に重点を置く時に、真の大衆仏教が成立する。そして…
『自他を大切に』 田辺聖恵 柔軟な感情を豊かにしてゆく 確実な知識を積み重ねてゆく それらの結集として行動する それらが自分を大切にする事だ それらが関わりを大切にする事だ それらが本当の幸せになる事だ 今日が明日につながっているのは 自分を高め深め広げるためにある その事が限りない喜びになってゆく [自他を大切に] 人の熟度は他人や環境への関わり度合に比例する。それは自分自身の熟度を根底にするものだが、又、関わり度が増すにつれて自分の熟度がさらに増す。こうした事が自他一切は…
…日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 啓蒙こそ真の仏道 仏教は勧善懲悪ではない。その善と悪をこえた究極の、真理体験を目的とする。そこで自己を完了はするが、それから他の人々の善、幸せのために生きるのである。つまり勧善懲悪がより正確に、誠実に行われるために、真理を背景として、啓蒙活動をするのである。真理(縁起・空・本願など)だけを説いて日常善を無視したり、軽視したりするのではない。 善因善果-悪因悪果という業報論を明確にし、何が善、何が悪かを明らかにし、たゞ単にゆきあたりばったりに生きる…
…日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 受授の系譜 釈尊仏教は、自主性の確立を第一とする。つまり、死という最大の難局に対して、それを恐れず、しかもあなどらず、見事に超越することである。浄土門で、他力によってしか救われないとするが、その救われた姿は自主性そのものである。救われた後々まで、どうしてよいか分らぬとうろうろするということはあり得ない。 さて、死を導かれ、救われによって超越することだけを目的とし、他を問題にしないということではない。そのような究極、覚りを最終目的として見すえながら…
…日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 師の本質 師とは何か。 一、自己形成(修行) 二、真実正導(啓蒙) 三、弟子形成(育成) 仏教に限らず、教育はすべて、人間形成を目的とする。少くとも日本においてはそういうことが出来る。又そうありたいものである。 かっての日本では、お茶を飲むこと、花を活けること、お料理その他いろんなことが「道」とされてきた。道とは、行うことであるが、その行う主体が、私という人間であり、その人間が自ら主体的であると自覚し、その自覚をのりこえて実践するところに、道と名…
…方のお手本を見るようにしないと、心の題題、観念の問題で終ってしまいやすい。心の持ち方を教えられただけで自分なりの、その法に合致した生き方が出来るという人は、よほどの人であって、普通は、手をとり足をとって教えて貰わないと、どのような実践をしてよいか分らないものである。たとえば、合掌や正座の仕方にしても、百聞は一見にしかずで、お手本というものが、大変に重要なものとなる。田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…はっきり説かれているのである。 五つの規律-殺・盗・淫・うそ・酒のみ。この五つを戒、いましめという。勿論これだけ守ればよいということでなく、これがすべての道徳の基本だということである。今日の日本全体のうわついた不幸が、実はこの基本の欠除に原因しているということが漸く分ってきたというところ。この遠因は日本仏教の指導力不足と考え、仏教徒として大いに恥じねばならぬ次第。 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…つぐ者 共に行じる 田辺聖恵 反省することの早かった彼に師は、学習をする者のあり方、価値ある人間としての生き方をねんごろに教えられる。 共に行じ、一つ所に往することが、学習者のまず第一の条件である。各自が個性を主にしていたならば、師の教えは、道統として伝えられることはない。仏教というものは、知識や発見ではない。それらはどんどん拡げられてこれでいいということはないが、仏教は、たゞ一つの真の価値に到達するということを目的としている。 覚りというたゞ一つの目的にゆきつくことを目的と…
…者 師に従わぬ報い 田辺聖恵 自ら信を持って従ったはずの師に、逆らって、別の道を歩むということは、何か現代を象徴しているとも云えよう。個性尊重という流行語に支配されて、やたらと独自性を打ち出そうとし、ろくに師の真髄を学びとることもせぬ中に、独立しようとするのが現代の風潮である。こうした軽薄の動きは、何かを創り出すその創り出された物の珍奇さのみが、人目を引き、新らしがり屋を満足させる。 しかし、そうした創造や解明などの労作を導き出すところの真の人間関係の重要さに気づこうとはしな…
…つぐ者 つきそい人 田辺聖恵 アーナンダ尊者が、釈尊のお身の廻りをお世話する常従のビクとなったのは、釈尊が御年五十五になられた時である。このナーガサマーラが、釈尊につき従ったのはその前のことであろう。(三宝聖典 第一部第五十項 別れ道 参照) 彼が何故、師に逆らって別の道をゆこうとしたのかはしるしてないから分らないが、ゆくてに彼の何か期待することがあったのかも知れない。彼は、師に従わず、その持つていた師の衣と鉢を地面に 置いてさっさとゆくあたり、彼の若さと人間としての未熟さが…
…) 信という心構え 田辺聖恵 信とはその教えられた人生観への信頼度のことであるから、これは人によって深さが違い、深いほど、己をより確にしてゆくのは当然である。法は真理であるから、一たす一は二のように、単純明快、人によって誤差があるというようなものではない。法が甚だ深いものであると云われる場合は、完全な覚り、徹底という立場に立つ時のことであって、一般信者が日常をどうのりきり、或いは日常をこえた世界へどう旅立つかという段階では、平易な基準として受けとれるものでなければならない。 …
…の目指すもの(上) 田辺聖恵 無念無想が目的ではない 「たゞ坐る」「たゞお念仏」ということが云われる。それは仏教の教え(人生観・仏陀観)をいろいろとへめぐり、ついに己の内面にしっかりと定着させたあげくの全人格的な表れ、行相としての坐、口に出るお念仏ということである。たゞ単に口で唱える、坐る、あるいは無念無想になるのではない。無念無想を目的としても構わないが、それは仏教ではないということを明らかにしておかねばならない。 『剣』でも『茶』でも道がつくと無念無想が尊ばれるが、それも…
…教の最終目的と理想 田辺聖恵 そこで釈尊は次善のものとして幸福法をまず教えられる。それが「次第説」である。しかしこゝではこれを略す。ともかく個人目的すらなかなか持とうとしない現実の上に人間の理想は考えられねばならない。 その目的を通り越した「理想」が成仏-実銭による社会改善が成仏道なのである。自分だけ悟って、あるいは教われて、平安になることではない。さてその仏けになりたいかという前提が確められねば先に進んではならぬのだが、一つの啓蒙論として次に、成仏の条件-時空を超越して(無…
…教の最終目的と理想 田辺聖恵 妙法蓮華経は有難いお経だとよく云われる。では有難くないお経はどれだと人は何故反問しないのか。大学のテキストは最高で小学一年の教科書は最高でないと誰が云えようか。 恩師水野弘元教授は、大乗仏教はいわば大学や大学院に相当し、原始仏教は中・高等学校に相当すると云われる。法華経(妙法蓮華経の略)を十年あまり独解し、原始仏教に触れて、その比較融合に明確化をなし得なかった私は、教授の正導によって一応の落着を得た。そしてその点を世上に啓蒙を展開すべく微力をつみ…
… 幸福!浄福!聖福 田辺聖恵 仏教は欲を捨てよと云うが、欲はかんたんに捨てられるものではない。第一欲を捨てたら、人類の進歩はなくなってしまうし、人類そのものが存在しなくなると云う人が多い。 仏教は、欲の満足という幸福を完全に否定するものではない。本来仏教とは、ブッダの教え、真理の認識、体験を教えて下さるものである。だが、誰でもそうした方向に進むものではないから、まず、幸福とは何かということを教えられる。 多くの人がはてしのない欲望を持ち、それを幸福と思っているが、はたしてそう…
…1日刊 三つの幸福 田辺聖恵 誰でもまことの幸福をもし得られるならほしいと思うであろう。そして、どうしたら得られるだろうかと考える。だから若い時にうんと苦労して働いておけば、年をとってから楽が出来ると考える。 お金がない=不幸(楽できない) お金を貯める=幸福(楽できる) これが戦前の常識であった。それで、日本人はせっせと働き、あれこれと買い集めることに生き甲斐を感じてきた。やがて何もしないで楽に暮らせる日がくると。その間に子供を産み育てた。 ところがその子たちはどう考えるか…
…信仰や宗教を求める心がなくても、先祖の供養をするというまことに人間の自然な心理習慣をもっている。このことを軽視してはならない。先祖がどうなるかはともかくとして、供養者の心が明快となり、明るい日常を送っている事実は多い。まずこの世俗の心の理によって充分に先祖供養をし、それから他への施の習慣を養い、次第に聖なる宗教、人間の真実の生き方に近づくようになりたいものである。 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…日刊 「業と宿業」 田辺聖恵 宿業-とは過去世につくった善悪の業因(新・仏教辞典・中村元)のことで、現在の果がどうしてこうなったかということの説明に考えられるもの。しかしコトバの感じから宿命論のようにとり、未来まで過去から決定しているようにとり易い。 現在は過去に原因があるとするのは、実は現在自分が決意し行動をすれば、そのような結果が未来に出てくるということの論理であって、この正しい業報論に立って初めて、人間は希望と努力で特に宗教への熱情がわくものである。どうにもならないから…
…日刊 「業と宿業」 田辺聖恵 (A・K様)「それはあなたの業です。だからこうしなさい」と言われ、あきらめて背負っていく。なんだかあわれで悲しい気がする。私は少し違うように思うのです。(意味のとり違えかも知れませんが) 「業」を背負っている我々を泣いて下さる仏様ではなく、仏様の大悲を知らされ、感じられるようになった時、業という鎖からとき放たれるのではないでしょうか。業は背負うものではなく、我欲から起ってくる妄想ではないでしょうか。あと先になりましたが、東井先生のお話、涙が出まし…
…ネルギーは何処からともなく、ボツ然と湧いてくるのである。達成した時の喜びの状態をイメージ化するーこれこそ秘伝中の秘伝。釈尊は二千五百年も前にこの「イメージによる達成法」を公開指導しておられたのである。こうして多くの人が自己目的を達成して喜び一杯に生きた事を、イメージ化せねばならない。 全現 208号 1987年5月8日刊 「イメージによる達成法」 (全現稿一四五) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…仏教でも後には、密教や浄土門で大いにイメージ法が応用されたが、今度はそれから原理抽象理解をおろそかにし、イメージのみで過ぎてしまう傾向が生じたのは、二法連関の釈尊法を活用し切っていない点で反省すべきかも知れない。集約高度法と展開平易法を自由に操作してこそ、目的達成の実際法と云えよう。 全現 208号 1987年5月8日刊 「イメージによる達成法」 (全現稿一四五) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…い。自己そのものである。貿易戦争とすぐに口走る日本人そのものを云っている。 文明に乗ってしまった以上、金や株、マネーゲームとこの勢いからは降りられない。パチンコ屋の店はなぜあの様に異常に明るくするのか。多分自分の影を見失わせるという企業戦略からきているのであろう。誘蛾灯の原理ならん。 全現 208号 1987年5月8日刊 「イメージによる達成法」 (全現稿一四五) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
… (全現稿一四五) 田辺聖恵 『文明の暗さ』 より知的に 高密度な仕事が要求される 適応淘汰がますます厳しくなる時代 それは文明社会の生き難さが生じる事だ 豊かさが増大すればするほど 水準維持のために緊張が強いられる それは文明にある必然の暗さなのだ 人は何故生きるのか何の為に生きるのか この原点思考を踏まえない限り 文明の中の踊り子で終わってしまうのだ 自分と自己 「自分を見失う」、見失ってはいけないと、われ人共によく云う。ではその自分、自己があるのか。と少々イジが悪い反問…