師弟の道 師の本質

浄福 第38号 1976年10月1日刊
「師弟の道」
                                 田辺聖恵
  師の本質
師とは何か。
一、自己形成(修行)
二、真実正導(啓蒙)
三、弟子形成(育成)
 
仏教に限らず、教育はすべて、人間形成を目的とする。少くとも日本においてはそういうことが出来る。又そうありたいものである。
 
かっての日本では、お茶を飲むこと、花を活けること、お料理その他いろんなことが「道」とされてきた。道とは、行うことであるが、その行う主体が、私という人間であり、その人間が自ら主体的であると自覚し、その自覚をのりこえて実践するところに、道と名づけられたゆえんがある。
 
主体的であるということは、他からの力によって左右されないで、己が正しい、最善と思う行動をするということである。儒教ではそれを中庸と云ってきたが、仏教もまた、この主体性の確立を目指した教えであり、実践道、自己実現の道であった。

日本人がいろんなことに道をつけるのは、実践の中に人間としての価値ある本質を見出そうとするからであろう。それは一見して、インドの冥想をこととするのとは大いに違いがあるように見える。老荘の「無為自然」ということが、日本で(シナでも)定着しなかったのは、勤勉さをしっかりと身につけている日本人にとっては、体質的になじめなかったのであろう。
 
中江藤樹先生は、日本の教育者の原点として考えるにふさわしい、まさに人生の教師ではあるが、こと仏教に関しては、小々、一般的見解と批判にとゞまっておられたのは無理もない。

釈尊妙覚の位は大唐の狂者の位にて、孔子よりはるかにをとりたる見性成道…」狂者とは、聖人の域に達していない、それより二位下ということである。なぜならば「元来、釈迦、達磨の心ねは勧善懲悪のためなるべけれども、末流には善をやぶり、悪をすすめ、人の心をまよはしむこと淫声美色のごとし。…この教法、粗れい迂闊なるゆえなり」それは中庸を知らないからで、それに悟入すれば中行の位にゆくであろうと云っておられる。

これは、抽象的な世界観、空にとりつかれ、あるいはそれを云い訳として、何ら実践行動をしようとしなかった、当時の仏教僧侶への批判が、ひいては釈尊の教法の未熟さによるという類推となったとみるべきであろう。それは藤樹先生が、釈尊仏教が、実は「中道」の教えであり、かつ実践であることを知らず、空観と浄土門で代表される、あまり実践的でない仏教を、仏教と受取られたからであろう。つまり資料不足によるものである。仏教者自身が、そのように大乗仏教として、限定してしまったのだから無理もないことである。いやむしろ仏教者の責任と云うべきかも知れない。


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