師弟の道 受授の系譜

浄福 第38号 1976年10月1日刊
「師弟の道」
                                 田辺聖恵
 受授の系譜
釈尊仏教は、自主性の確立を第一とする。つまり、死という最大の難局に対して、それを恐れず、しかもあなどらず、見事に超越することである。浄土門で、他力によってしか救われないとするが、その救われた姿は自主性そのものである。救われた後々まで、どうしてよいか分らぬとうろうろするということはあり得ない。
 
さて、死を導かれ、救われによって超越することだけを目的とし、他を問題にしないということではない。そのような究極、覚りを最終目的として見すえながら、そうした修道へ入る道順を誠実に踏んでゆくということである。それが第一段階である。
 
出家するということは、その修道専門に入ることであるが、その前の段階として、在家道が重視される。在家生活としての誠実さと善(道徳)への努力がなされていないで、どうして善のもっとも根元的なものとしての聖への契合が出来るであろうか。世間を虚仮とみるということは、決して単なる嘲笑でもなく、自分の願望が果たされなかったがゆえの逃避的態度による見方でもない。世間を誠実に生きる者のみが、深い反省によって、又は真の教え、正導によって、なるほどと納得されてゆく人間哲学である。日常生活への真剣な取組みによってしか、仏教への道は開けない。
 
そうした人生への真剣な取組みを示しているのが、こゝに掲げた「師弟の道」である。これは、学問、技能の受授が中心になっている。これはいかにも抽象の世界、究極の生死を超克するという仏道の受授ではない。この学問、技能とは、まさにより良く生きる道、浄福の道である。今日の大学のあり方を示しているとも云えよう。
 
さらにその師弟の態度ということになれば、今日より、いかにすぐれて、しかも実際的であったかが分る。今日の学校教育には、科目論はあるが、態度論がない。頭でっかちや、落ちこぼれ輩出ということは、科目をへらすこと、たゞゆっくりすることで解決すると、本当に教師方は思っていないだろう。その本音をはかないところに本当の原因があるのである。生徒たちの純真さは、それを直覚的に察知しているとみるべきではなかろうか。
 
これは又、儒教での「学びて時に習う」と全く一致している。儒教が仁と義(孝と忠)を中心にすえているのに対し、仏教は自己の絶対化を中心にすえている点で、一応の相違はあるとしても、その仏教が、世俗日常生活を軽視していたということではない。それは『三宝聖典』(アゴン経の現代語化と大乗の要旨)によって、この「浄福」誌上でしばしば明らかにしてきたところである。
 
この世俗の世界をかりに仁(愛)ということで貫き、絶対化するためには、一度、絶対の世界に遊ぶことを通らねばならない。そこから世俗相対の世界に下りてきて(仏教では還相廻向とも云う)、その絶対の目で(自己中心を捨てた心で)、世俗の善を見、世俗と共に生き、共に育ち、共に歩み、真実を実現してゆかねばならない。その絶対境の体得に仏教は充分な時間をかけてはいるが、それで終るのでなく、世俗に下がってくる(正導者としての生き方ではあるが)ところに仏教者としての本当の生き方、理想の生き方があるのである。これからの仏教は、こうした面の解明によって、真の釈尊仏教(中道門)の開発、実践がなされてゆくであろう。


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