全現 208号 「イメージによる達成法」 自分と自己

全現 208号 1987年5月8日刊

「イメージによる達成法」
   (全現稿一四五)        田辺聖恵

   『文明の暗さ』
より知的に 高密度な仕事が要求される
適応淘汰がますます厳しくなる時代
それは文明社会の生き難さが生じる事だ
 豊かさが増大すればするほど
 水準維持のために緊張が強いられる
 それは文明にある必然の暗さなのだ
人は何故生きるのか何の為に生きるのか
この原点思考を踏まえない限り
文明の中の踊り子で終わってしまうのだ

  自分と自己
 「自分を見失う」、見失ってはいけないと、われ人共によく云う。ではその自分、自己があるのか。と少々イジが悪い反問をしたくなる。今でも歌舞伎で心中ものが上演されたり、仕事上でゆきづまって自殺したりする話があるが、それは自分、自己があるからなのか、無いからなのかと大いに疑問を持つ所である。
 
生命体である動物が何かの為に自殺するという事は、まず無いと云ってよかろう。アフリカの広大な砂漠の中で、蛇やトカゲ、様々な昆虫達が、どこにエサがあるのだろうかといった厳しさを見事にくぐりぬけてゆくのを視聴すると、珍しいなどと云っていられない厳粛さを感じるものである。そこには生きぬいてゆくという、生命の本質、生命としての自己があると教えられる様である。

「自己を欺くこと莫れ」と宋史にあるそうだが、自分とか自己とか云う言葉はあまり論語にも出てこないようである。かつての封建社会においては、その全体組織の中の部分存在としての己が考えられ、多分に規制されたもの、分々としての在り方しか考えられず、また考えたらハミ出しでいけなかったのであろう。そこから己の本分という事が発想され、己そのものは考えない、無私が美徳とされる様になっていた。このパート性は社会順応ではあるが、社会からハジキ出される(イジメの原型)と自分は消滅し生きられないとなる。ここに安定と不安定の極端さがあると云えよう。
 
西欧の近代思想においても、まだ自己と自我が混在しているようで、スッキリした自己が明らかになっているとは思えない。
 
さて今日、部分存在としての自分と、それらの外縁性を一応切り離しての、人間そのものとしての自己を区分してみる事が必要なのではないか。何故ならば文明社会になればなるほど、その文明の中の自分、文明に巻き込まれ、振り回され、躍らされる事によって、一体自己というものは何なのか、という自己喪失になってしまい易いからである。近代は自己発見の歴史と云われるが、それは女性も酒タバコを男性と同等に吸飲するといった、自我欲の枠ハズレとなっているのではないかと、首をかしげたくなるからである。
 
この様になると精神科医が増え、眠れる宗教家も目をさます、という有難い事になるのであるが、そんな喜び方をしているわけにもゆかない。いよいよ、自分という部分的己ではなく、根源的己、本当の自己が明らかにされ、その様な自己になる為の達成法が実行されねばならないであろう。忙しい、ガンバレと躍ってばかりは居られない。文明とは光りと影のワンセットなのだから。


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