衣鉢をつぐ者(中) 師に従わぬ報い

浄福 第36号 1976年8月1日刊
        衣鉢をつぐ者
師に従わぬ報い
                               田辺聖恵
自ら信を持って従ったはずの師に、逆らって、別の道を歩むということは、何か現代を象徴しているとも云えよう。個性尊重という流行語に支配されて、やたらと独自性を打ち出そうとし、ろくに師の真髄を学びとることもせぬ中に、独立しようとするのが現代の風潮である。こうした軽薄の動きは、何かを創り出すその創り出された物の珍奇さのみが、人目を引き、新らしがり屋を満足させる。
 
しかし、そうした創造や解明などの労作を導き出すところの真の人間関係の重要さに気づこうとはしない。日本に於いては、確に人間関係は多すぎる。しかしだからといって、真実をもたらす人間関係までうやむやにしていいということではない。

芸能の世界以外では、師というコトバは全んど使われることが無くなってしまった。これは一つは、活字文化が発達したからかも知れない。かつては、すべての知識は師のコトバと行為を通してしか学び取れなかったのであるが、今日、たいがいのことは書物を通して知ることが出来る。しかし、書物は師ではない。なぜなら師は叱っても忠告もしてくれないからである。書物は、本代という実費を要求するが、施をすることにはならない。書物だけで道を求める人はこの施をすることに気づかないということで実に安易な歩み方をしてしまうのである。
 
ナーガサマーラが、師に逆らって道をゆき、盗人にあって災難を受けるというのは、師に奉仕(施行)する心を失った者の当然の報いなのである。このように報いが明確であることが、反省の機会を与えてくれることでもある。もし、悪い報いがはっきりしていなければ自分のやったことは間違ってはいないとしてしまう。
 
師の道を習い、やがて師に逆らうということは、師の法を盗むことでもある。彼が盗人にあったのは、彼自身が盗人になっていたことを気づかせられることでもあったのであろう。類は類をもって集ると云われるように。


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